ここには大昔テバコラに書いたものをまとめました。



納豆太郎伝


【前編】

(1)納豆の発祥


貼ってはがせる便利な付箋紙やメモ用紙は、現在では日常不可欠なものである。ここに使われている不思議な粘着剤であるが、、強力な接着剤を開発しようとしていて偶然できたいわば失敗作であった、ということは有名な話である。古くは、豚の丸焼という調理法も失火で豚小屋を燃やしてしまったために発見されたとか。中国ではその後蔓延した豚小屋放火調理法に、禁令を発したのだという。こうした発明・発見はよくあるようで、一般には、「怪我の功名効果」とか「瓢箪から駒現象」とか呼ばれている。

大豆から酒を造ろうとした(多分)男がいた。彼は大豆を蒸してこれに酵母を混ぜた。ところが悲しや、大豆には十分なデンプンが含まれていなかったため、大豆のミイラみたいな妙なものができてしまった。しかし、これはこれでいけた。大徳寺納豆などの塩辛納豆が誕生したのだ。これが納豆史における最初の失敗による発明である。

ところが更に不器用でズボラな男がいた。蒸した大豆をあまり冷まさないで塩辛納豆を作ろうとした。その上、これを俵に詰めて放置しておいた。もう良いかな、と開けてみると豆がネットリしているうえ糸まで引いている。俵の藁から納豆菌が侵入繁殖してしまい酵母菌が全滅していたのだ。普通なら気持ち悪いと捨ててしまうところだが、そこがズボラな男ならではのこと、何と食べてみたのである。そして第二の大失敗による大発明・糸引納豆の登場となる。

誰がこれを普及させたのか、ということが本題である。世上、四人ほど有力な容疑者(候補者)がいる。古い順に聖徳太子、八幡太郎義家、納豆太郎糸重、そして加藤清正である。それぞれ六世紀末十一世紀半ば、十五世紀半ば、そして十六世紀末の人物である。このうち聖徳太子はどうも塩辛納豆の元祖というのが定説である。世界的に見るなら、聖徳太子級の方はザラにおられるらしく、東南アジア・東アジアの納豆は、おおむね塩辛納豆である。

一方、糸引納豆については、後三年の役の折、八幡太郎・源義家の陣営が、豆を煮てこれを食べようとしていたところ、敵・清原氏に急襲され、大慌てで、ほぼ煮えたものを俵に入れて馬の背にくくりつけた。数日後開けてみたところ、思いもかけぬ糸を引く豆ができていた。もったいないと食べてみたら……と、大部分の文献で説明されている。

となると、この探訪はここでおしまい、納豆太郎糸重も加藤清正も無関係・無罪放免となってしまう。しかし、必ずしもそうはいかないのが歴史の醍醐味である。

(2)肥後の納豆

糸引納豆の起源を後三年の役に求める説は、広く支持されている。関係各学会も、おおむね、この線に沿った学説を正統と認めているようだ。しかし、歴史というもは一筋縄ではいかない。膨大なファクト(事実)の集積でありながら、そこにひとつまみのフィクション(作り事)を混ぜるだけで、思いもかけないことが、後世真実としてまかり通り出すのである。あたかも納豆と薬味の関係のように。この糸引納豆の起源問題は、その好例かもしれない。

後三年の役に二十年ほど先立つ、前九年の役の方にこそ糸引納豆のルーツがあるとする説がある。この役の場合、八幡太郎義家は副将で、総大将は父の源頼義であった。敵方の主役は「年を経し糸の乱れの苦しさに」で名を残した、あの安倍貞任(さだとう)である。天王山とでもいうべき衣川の戦いにおいて、義家が「衣のたては綻びにけり」と呼び掛けたのに応えたもの、と伝えられる。双方あっぱれな武者振りといえる。結局、この役の顛末だが、貞任、重任兄弟の戦死、斬首などにより、奥州安倍総本家の血筋が絶えたとされる。

安倍の分家で、彼らの叔父さん筋にあたる、安倍宗任(むねとう)、家任(いえとう)などは、投降のうえ助命されている。安倍宗任は九州の太宰府に流されるのだが、この配流の地で、糸引納豆の製法を広めたとされる。その後、この技術は、九州は肥後の国の片隅で細々と継承されていった。戦国も終わろうとする天正期、新たに肥後の国主に着任したのが加藤清正である。加藤清正の慧眼は、この食品が、脚気などの陣中の病に対する特効薬である、ということを見抜く。秀吉の朝鮮の役に際し、加藤清正軍中で大いに活用されたという。ここで加藤清正と糸引納豆の関係が明らかになった。

しかし新たな疑問が生ずる。なぜ、安倍宗任は糸引納豆の技術を身につけていたのだろうか。なぜ、太宰府で広められた糸引納豆が、そこからかなり離れた、肥後の国で引き継がれていったのだろうか。

ところで一方、不思議な噂が流れる。乱の首謀者であった安倍貞任は、実は死んでいない。死んでいないどころか、その後、義家の側近として永く仕え続けた、というものだ。貞任の死については、「國解」という国司から朝廷への公式報告書に、はっきりと記されている。また、「陸奥話記」という軍記物にも、克明に記述されている。しかし、國解の報告責任者は義家の父の源頼義であり、頼義が見たのは絶命寸前の貞任であった。陸奥話記は、前九年の役の終焉直後に書かれており、軍記物としては異様な速報性をもっている。このため、役の関係者による事前検閲が充分可能な状況下で編纂されている。しかしながら真相は、更に思いがけないところにあった。

貞任の子に千代(世)童子という、容貌美麗な若者があった。前九年の役の最終戦である廚川(くりやがわ)の戦いでは、十三歳という若さで、よく戦い、安倍惣領家の名を辱めない勇ましさであったという。頼義もこれを哀れみ、このジャニーズ系青少年を助命しようとしたが、周りに難ずる者があり、止むを得ずこれを斬ったとされている。良くできた話である。誰しも、陸奥話記のこのくだりには涙し、ゆめ疑うことはしなかった。しかし、「しかし」である。千代童子は、助命され匿まわれていたのだ。そして、義家の一郎党として養育されていったのである。このことが、時に応じ貞任延命説が世上流布する、ということの背景にあったのである。

この千代童子こそ、もう一人の糸引納豆伝承者であった。

(3)後三年の納任

京の都に伴われた千代童子は、八幡太郎義家の手許で傅育される。義家は、この一回り年下の利発な少年を、心からかわいがったようである。月日は流れ、元服を済ませ、成年に達する。その元服名は? さて困った、それが判らない。安倍貞任の嫡男が生存しているなどということは、絶対に知られてはならないことだ。露見すれば、源氏の立場は一挙に危うくなる。当主の頼義・義家と周囲の一部だけが知る、極秘事項である。もちろん彼の出自については、巧妙に偽装されていたのだが、簡単な記録を残すことさえ、慎重に回避されていた。しかし名無しでは不便だ。そこで、ここでは仮に、「納任(なっとう)」と呼んでおくことにする。

納任は義家のごく身近に仕えていたらしく、これを裏付ける文書が、後で触れることになるが、室町期に出現している。源家での納任の役割は、家令とか執事というような、あくまでも内向きのものであった。そこに、再び奥州に戦乱勃発、後三年の役である。この機会に納任は、その持てる才幹・知識を遺憾なく発揮する。時に納任は三十代半ば、まさに働きざかり。輜重(補給)の切り盛りなどで、総大将義家を大いに援けた。この戦役に際し納任は、清正に五百年も先んじて、糸引納豆を陣中食として大々的に採用している。むしろ、寒さと飢えに悩まされながらも、納豆パワーという援軍があったので、かろうじて勝利が得られた、というのが正しいのかもしれない。

後三年の役の最終的勝利者は、清原清衡である。後に藤原清衡と改姓、奥州藤原三代の黄金時代の幕を開く人物である。役の冒頭では八幡太郎義家と干戈を交えていながら、最後には義家に与し、前九年・後三年を総精算するかのように、全奥州を手に入れたのだが、この清衡は、実は、貞任の妹の子であった。つまり、安倍本宗家が女系ながらも二十年の歳月を経て蘇った、という見方もできる。納任と清衡は、幼なじみのいとこ同志である。義家軍の中枢深くにいた安倍家男系の正統な血筋を引く納任、彼が義家ら軍幹部に苦労しながらも巧みに働きかける様が、目に見えるようである。

後三年の役が、糸引納豆発祥との関係を喧伝されるのは、以上のような事情からである。千代童子が伝承した安倍の糸引納豆は、この時を境に、東日本全域に広まった。京都には興味深い伝承がある。糸引納豆は義家軍に従軍した京都近郷の人々が東国に流布した、というものである。もうおわかりだろう。千代童子が一旦奥州から京に移り、長じて納任となって京から再び奥州へ、糸引納豆の製法とともに帰還したことの反映である。千代童子、改め、(安倍)納任の存在は、あくまでも秘されていたのである。

時代は胎動を続ける。藤原三代の栄華も、夢のように過ぎ去ることだろう。そのあとには、本格的な武家政権が登場することになる。

(4)一筋の糸

清和源氏には、不思議にスターが多い。ちょっと思い返すだけで、頼光、義家、為朝、義仲、頼朝、義経、実朝などが、直ちに浮かぶ。もちろん貴種である。しかしながら、なぜか庶民の心の琴線に触れるものを持っている。素戔鳴(すさのお)にも比すべき激情、鹿の仔に憐れみをかける優しさ、虫にさえ感じて歌を詠む詩情、これらの混合割合が、普通の日本人にとっては、丁度よい口当たりになっているのかもしれない。ちょうど、糸引納豆が日本に定着したように。

「天下第一武勇之士」と称された義家、しかしその人気ゆえに、上皇を始めとする公家層からは、強い反発を受ける。義家は三人兄弟であり、三人の息子があったが、まず、弟の賀茂次郎・義綱と離反させられる。次いで、嫡男の義親が官吏殺害で告発を受ける。多事不遇の晩年であった。義家の没後、まず長男・義親は追討される。ついで、三男・義忠が暗殺されるが、その背後で糸を引いたとして、義綱が成敗される。これら一連の事件の背後には、義家の末弟、新羅三郎・義光の影が見え隠れする。結局、義家の血統は、次男・義国と、孫にあたる義親の一子・為義の二人を残すだけになった。

義国は、父義家から譲られた足利の庄の経営に、全霊を打ち込んできた。都の政争からは、距離を置いてきたつもりである。しかし、大貴族さえ震え上がらせたという叔父義光、その子供たちも、この関東で所領を広げつつある。現に自分の若いころには、義光に縄張り争いを仕掛けられた。今後とも、いつ何をされるかわからない。亡兄義親の一粒種である甥の為義は都で任官しているが、最近、再度の解官処分を受けている。為義の行く末も思いやられるが、何よりも、都の状況次第では、当家に累が及んでこないとも限らない……義国は不安である。

為義には十人近い男の子がいる。八郎為朝のような暴れ者もいるが、太郎義朝のような切れ者もいる。それに比べて、義国には義康と義房という、たった二人の男子しかいない。自分の叔父や兄弟を見舞ったような運命が、万が一降り掛かってきたら一巻の終わりである。自分の家系は絶えてしまうだろう……義国は決心する。もう一人、自分の相続人を確保しよう。幸い足利の庄に隣接して開墾してきた、新田(にった)の庄がある。すでに美田となっている足利の庄は、二人の嫡子に経営させる。新田の庄は、あの男の孫に相続させよう。父義家に影のように寄り添い、生涯忠実に仕え続けた納任の孫に。

安倍貞任から三代目の子孫、納任(千代童子)の孫は、このようにして、源義国の庶子・義重として新田の庄を嗣ぐことになった。そして、この新田義重の七代目の子孫こそ、新田義貞である。義家から「義」の一字を、貞任から「貞」の一字を、それぞれ受け継いだ、秘かなしかし凛然とした名乗りである。まさに、「事に臨んで立たざるべからざる」糸を引く名である。源家の政権を横領した北条得宗家の鎌倉幕府を、稲村ヶ崎の名将として打倒すべき宿星を背負っていたと言える。

後世、滝沢馬琴は、足利の庄の方の相続人・義康の嗣子とされた義兼が、実は、鎮西八郎為朝の忘れ形見・朝稚(ともわか)である、と「椿説弓張月」の中で喝破している。だが、馬琴の鋭い目にも、安倍貞任から新田(納豆)義貞へと続くこの細い糸は、さすがに見えなかったらしい。奥州藤原氏は、すでに源頼朝によって滅ぼされている。今では、安倍貞任に発したたった一筋の糸が、この義貞につながっているだけである。

建武の新政をめぐり、足利氏と対立を深める義貞。そうして、その行く末には悲劇が待ちうけている。

(5)法皇の納豆

鎌倉幕府を打倒した義貞は、後醍醐天皇の勅命により上洛する。そこで展開されたのが建武の新政。しかし、新政とは名ばかり、何百年も時計の針を逆転したような、公家の専権政治であった。武家の二人の棟梁、新田義貞と足利尊氏は、ともに不満である。いずれ何らかの変事が起こることを、予感させる世相であった。ここで義貞は、丹波に逼塞している前帝・光厳(こうごん)法皇と、密かに接触をはかるようになる。

この二人の間を取り持ったのは、匂当内侍(こうとうのないし)である。匂当内侍は光厳天皇時代の内裏の女官であった。後醍醐天皇復帰、光厳天皇廃位に際し、後宮の在庫入れ替えが行われる。この一環として、大手柄の義貞に、褒美としてこの内侍が下げ渡されたものである。負け組である鎌倉方の領地は、公家が我先に分け取りしてしまい、ほとんど残っていない。恩賞が足りない。そこで、武家には現物支給でお茶でも濁しておけという、後醍醐帝が時々見せた「IB法(行き当たりばったり法)」の好例である。

光厳天皇は後醍醐天皇の皇太子であったが、後醍醐帝が隠岐に流された折に、鎌倉幕府に擁立され即位した。しかし、間もなく後醍醐側の巻き返しが成功、倒幕となったために、廃位の憂き目にあう。わずか一年数ヶ月の在位であった。後醍醐帝は光厳天皇の即位そのものが無効だとしている。したがって院を開店することも許されず、仏門に帰依している。光厳法皇、弱冠二十歳、再起の野心は満々である。義貞にとっては、ポスト後醍醐として担ぎ出すとすれば、絶好の切り札である。

京から法皇のご在所までは意外と近い。義貞は源九郎義経ゆかりの鞍馬詣でを口実に、都を抜け出す。下賀茂から高野川をさかのぼると岩倉村。この道筋は、五百年後、再び謀略街道となる。大久保利通が岩倉具視の許に通うのである。さらに進むと貴船口。鞍馬から花背峠を抜ける道は人の往来も多いので、ここで道を左に取る。貴船川に沿って芹生峠を越え、そこから灰屋川とともに谷を下ると、大堰川(おおいがわ:桂川)に当たる。間もなく法皇のいます常照寺に達する。馬でほんの半日ほどの距離である。

義貞は頻繁に通った。この行き来のなか、義貞は、家伝の糸引納豆製法を、法皇周辺に伝えたのである。これが、京都は京北町に今日も残る、山国納豆の起こりである。法皇と義貞のやりとりは極秘のうちに行われた。したがって、義貞の名が表に出ることはなく、この納豆は「法皇様の納豆」と呼ばれた。

この後、法皇と足利尊氏との関係が、意外な進展を見せたため、義貞との関係は、ますます知られてはならないことになっていく。

(6)納豆太郎登場

納豆休題(糸はさておき)。建武の新政は、二年半ほどで破綻する。きっかけになったのは北条家の残党による鎌倉の騒擾だが、尊氏はこれを征伐するとして東下、露骨に反新政々府の態度を示すようになる。都に取り残された形の義貞は、皮肉なことに、後醍醐朝廷の官軍に任ぜられ、賊軍たる足利尊氏の討伐を命ぜられる。いったんは東国から都にまで押し戻されるのだが、北畠顕家が率いる奥州軍(!)の来援に救われ、官軍側が圧勝、尊氏は西国へと落ち延びる。

落ち延びながらも尊氏は、大変な奇手を打つ。彼も光厳法皇に目を付けたのだ。赤松円心の必死の働きで、「光厳上皇の綸旨(院宣)」なるものを手に入れた。これで尊氏も官軍になる。少なくとも義貞とは対等になった。さらに赤松円心は、播州白旗城に立てこもり、尊氏の追撃に躍起になる義貞軍を二ヶ月近くも食い止めた。これでゲームの流れは変わった。その間に九州で勢力を盛り返し、反転攻勢してきた尊氏に、新田義貞・楠木正成連合軍は湊川の戦いで敗れる。ついに義貞は、北陸を指して都落ちすることになる。

一方、尊氏は、還俗した光厳上皇を奉じて都入りする。光厳上皇は、当然、自分が天皇に復位するものと考えていた。しかしながら、尊氏が後醍醐帝に迫って譲位させた相手は、人もあろうに、弟・光明天皇の方だった。たしかに傀儡(かいらい)としては、いまだ十五歳の若い光明天皇の方が扱いやすい。裏切られたと感じた光厳上皇は、激怒したものの、結局、政治力では、尊氏が何枚も上手だったということだ。義貞との約定を違えた自分を、光厳は深く悔いたはずである。

義貞には、義顕、義興、義宗という三人の嫡子がいた。義貞、義顕父子は、間もなく北陸で戦死する。義興、義宗は、その後の南北朝の長い戦乱の中に消えて行く。安倍貞任の血統は、これで絶えたかに見えた。しかし、義貞は北陸落ちに際し、匂当内侍の手許に乳飲み子を残していた。匂当内侍にとっては、広い世間に、頼れるのは光厳上皇のみである。母子はひそかに上皇のところに身を寄せる。納豆の糸はさらに伸びたのである。

失意のうちにあった上皇も、この母子を庇うこととした。なんといっても新田太郎義貞の血を引いている、将来どのような利用法が開けるかもしれない。とはいえ、上皇の周辺には他人の目が光っている。そこで腹心の貴族に、この二人を預けることとした。当時南朝方のシンパであった大貴族、二条良基(よしもと)である。後醍醐天皇は、この直前、尊氏支配の京都から吉野に逃れ、南朝を開いている。世はすでに南北朝の時代になっていた。

幼ない子供はつつがなく成長し、元服し、二条家の家人「納豆太郎糸家」を名乗る。

(7)一天無双

世に、貴族、特に大貴族ほどあてにならないものはない。最初は南朝に肩入れしていた二条良基は、いつの間にか北朝に仕えるようになる。足利尊氏も良基の学識を大層重宝した。ついに良基は、摂政関白太政大臣に登り詰める。こうなると、納豆太郎糸家の存在は、少々微妙な問題となる。何といっても新田義貞の忘れ形見である。そこで、良基は次男の経嗣(つねつぐ)が一条家の養子に貰われていった機会に、糸家をこれに従わせた。皮肉なことに、その後、関白ポストも経嗣とともに一条家に行った。


南北朝の統一がなって、動乱の世にも小康が訪れたころのある日、経嗣は二人目の男の子に恵まれる。これが「一天無双の才人」と称され、あるいは遥か後世「日本のルネッサンス人」とも呼ばれることになる、一条兼良(かねら・かねよし・かねなが)である。兼良は兄をさしおいて、二度も関白位を極めることになる。この兼良の代には、糸家の息子糸国とその子糸重が身辺に仕えていた。


ある夜、兼良のお伽は、すでに老境の納豆太郎糸国とその子糸重であった。ここで兼良は、彼らから驚くべき物語りを聞かされる。彼らが、遠く四百年前に絶えたとされる、安倍本流貞任の直系の子孫であること。千代童子が義家に助命されたこと。その血筋は義家の子義国の手によって、上州新田の庄に源氏として扶植されたということ。その末裔たる義貞と光厳上皇との間の出来事のこと。匂当内侍の縁で二条家、ひいては一条家の家人として仕えていること……などなどである。


足利将軍家の威信はとうに低下し、時代は再び騒がしくなってきている。納豆太郎たちの来歴は、一条家にとっても厄介な政治問題を生ずるおそれがある。世の中がもう少し違っていたら、一天無双の兼良のことである、この夜伽の話を克明に記録し、注釈を加え、後世に残したに違いない。納豆史学のためには、まことに惜しまれることである。だが、兼良は、二点の重要資料を残した。

ひとつは、当時大量に創作された、お伽草子の形をとって書かれたもので、「精進魚類物語」あるいは「魚鳥平家」として今に伝わるものである。なまぐさ「魚鳥軍」と「精進軍」が合戦し、精進軍が勝つという、勧善懲悪物の一種である。精進軍の総大将は、当然、納豆太郎糸重である。ここで、兼良は、納豆を精進料理の代表格として、高い評価を与えている。あるいは、前九年の役で敗死した、安倍貞任への鎮魂だったのかもしれない。

もうひとつは「鴉鷺(あろ)物語」で、ここには「義家朝臣鎧着用次第」が記されている。つまり、八幡太郎義家が、下帯から始めて鎧を完全装備するに至る手順が、極めて克明に述べられているのである。そして、この古記録は「左中将義貞朝臣」つまり新田義貞が残したものだ、とはっきりと注記している。義家に側近く仕えた納任が実見を記録し、これが孫の新田義重の手を経て、新田義貞に、そして納豆太郎糸重へと伝わったものである。

中世の大才人の手によって、納豆史学に貢献すること大なる、第一級の文献資料が残されたことに感謝したい。

この直後の応仁の乱を皮切りに、時代は戦国乱世へと大きく傾斜する。爆発的な生産性の向上、それを処理できない古い社会システム、典型的なバブル発生の条件である。この時代も、エネルギーは土地へと向かった。銀行屋さんがいなかったので、武力争奪という形式をとったが、これは避けようもないことであった。一条兼良も戦火を避け、京の都を離れ、諸所を転々とすることになる。兼良の長男教房などは土佐の所領に下向疎開し、土着して土佐一条家を起こす。

そして、納豆太郎は……



【納豆への思い(閑話)】

 − 納豆と シジミに 寝坊起こされる −

納豆やシジミが、向こうから歩いてくる時代に育ちました。冬の朝、「室(むろ)」から出されたばかりの納豆が、自転車の荷台の箱に入れられ、家々の間を売り歩かれます。箱の蓋を取ると、湯気の立つ豆たちが、今日の元気を約束するかのように、輝く笑顔を見せてくれます。

日本人の朝食はどこから来たのでしょうか。そして、どこへ行くのでしょうか。テバの馬齢ン十年の間にも、大きく変化してきました。(ホテルなどではなく)旅館に泊まった時に、思いもかけずクラッシクな構成の朝食に出会い、うれしい驚きを感ずることがあります。

炊き立ての白いご飯、わかめの味噌汁、鰺の開き、納豆、焼き海苔、白花豆、お新香……、ほら、ちゃんと納豆があります。こういうメニューであれば、少なくとも違和感を感じることはありません。完全に刷り込まれているからですね。(若い人たちはちょっと違うかも知れませんが)

漠然と、八幡太郎義家と後三年の役の伝承を信じていました。しかし最近、納豆太郎糸重の事蹟について書かれたものを読み、衝撃を受けました。恥ずかしながら、昔、あの「魚鳥平家」の漫画本が、わが家にあったことを思い出したのです。どんな家じゃ、などと訊かないでください。それに、今はもうどこかに行ってしまいました。

自分の怠慢に猛然と腹が立ってきました。これは放置できない。これは徹底的に考えなければいけない。などと思うようになりました。ライフワークが目の前にありながら、気付かなかった。何といううかつさ……

(三週間足らずのライフワークではありましたが)

安倍一族の皆様、清和源氏の諸公、公家方面や、やんごとなきあたり、と多くの人々に出会うことができました。こうした方々のおっしゃることを、丁寧に組み立てる、ジグソーパズルの楽しさも味わいました。ある時は、貴船川沿いの桜散る山道を、単騎独行する義貞の姿がありありと見えたほどです。

歴史については、「……と言われている」と説明する人がよくあります。ま、見てきたわけじゃないし、と許してしまうことが多いのですが、よく考えると、「……と言」っている人も見てきたわけじゃないのですね。話題が納豆であれば、これからは、「わしゃ言うてへんで(仁鶴風に)」と返せます。これが快感、今回の個人的成果です。

納豆太郎糸重から七代の子孫が納豆太郎糸貞ですから、時代はちょうど戦国終期にあたります。戦国大名には源氏を名乗る人が多く、ひょっとしたら、と思える大名も二・三ありました。「未完」には、そんな思い残しもあります。

[参考]

少々古い話ですが、茨城県の大洗で旅館に泊まったときのことです。宿泊客は約百名、47都道府県から二人ずつでした。朝食には納豆がついていました。チャンスです。わざとグズグズしながら、最後の一人が食事を終えるのを待ちました。数えてみます。結果、残した人は約半数でした。



【後編】

(8)天道、是か非か


「政権は銃口から生まれる」のだろうか。このテーゼを巡り、熱い熱い議論が、中華中原の地で起こった。今を去ること三千百年余の昔、殷周易姓革命の時であった。末期症状を呈していた殷(商)の紂王政権を、周・武王とその軍師・太公望呂尚が中心となって、事もあろうに、武力で打倒してしまったのだ。この覇業を思い止まらせようとして挫折した伯夷と叔斉の兄弟は、「周の粟(ぞく)をはまず」と捨てぜりふを残し、首陽山にこもり、餓死して果てた。司馬遷が後世、「天道、是か非か」と慨嘆したことは有名である。

この革命にあたっては、もう一人、司馬遷を感動させた男がいた。箕子(きし)である。箕子は殷の王族だが、紂王に諫言し、逆鱗に触れ幽閉されていたのだ。武王は、自分の武力革命を棚に上げ、殷朝はなぜ滅びたのか、と箕子に尋ねる。箕子は、王道に関することでなければ答えられない、と返答した。そして、恥じ入って襟を正した武王に、天地の大法としての八大基本施策を示したのである。間然するところない司馬遷は、「ああ箕子か、ああ箕子か」と感嘆するのみであった。この箕子が朝鮮に封じられ、箕子朝鮮の祖となる。

時代は九百年ほど下る。春秋・戦国を経て、初の中華帝国・秦の成立を見る。天下一統をなしとげた始皇帝には、時間が必要だった。文字や度量衡や車軌の統一、封建制から郡県制への転換、万里の長城の建設、文明宣布事業としての軍事遠征、……すべてが手を付けたばかりである。ここで必要なのは、何といってもまず寿命である。天下を手に入れ天子となった自分に、不老不死が入手できない筈はない。そんな思いが募るところへ、徐福という、神仙道の探究をこととする方士が現れる。東海中に蓬莱(ほうらい)・方丈・瀛州(せんしゅう)という三神島があり、そこに行けば不老不死の霊薬が得られるというのだ。この話、始皇帝は直ちに乗った。

徐福の求めるまま、童男童女を供に、船を仕立てて送り出す。しかし九年後、徐福は霊薬を持たないまま帰ってくる。東海中に神山を目前にしながら、大鮫や海神に邪魔をされ近づけなかったのだという。寄る年波にあせりを感じていた始皇帝は、今回も口車に乗る。今度は、童男童女三千人のほかに、さまざまな工人も随行させ、五穀の種まで持たせて、紀元前二百十年、再度徐福を船出させた。この後、間もなく始皇帝は没する。万世皇帝まで続く制度設計がなされていたはずの秦帝国は、次の二世皇帝の代に、あえなく滅びた。

徐福は九年の間、どこで何をしていたのだろうか。そして、再度の出帆のあと、どうなったのだろうか。そこは、さすがに文字の国である。邪馬台国のことまで巨細にわたる記録を残したほどの中華文明である。徐福のフォローも、ちゃんとしてあった。史記に続く官製史書・漢書は、再出帆の八十数年後、徐福は平原広沢の地で王になった、と述べている。少々高齢すぎるようだが、あるいは、徐福の後継者が王になったという解釈もある。

(9)万国津梁の王国

第一の航海で徐福がたどりついた島々は、実は八重山蓬莱王国であった。この王国は、現在は与那国と呼ばれる島を首島とし、西表と石垣を加えた三神島からなる海洋王国である。海上の道を通じる人・モノの交流や、豊富な海の幸を経済基盤として繁栄する、芳醇闊達な島嶼型海洋文明のまほろばであった。徐福たちは歓迎された。島の心は、海の彼方から到来する全てを、神聖な物、有り難い物として受け容れる。南方原産の稲(ジャワニカ?)も、黒潮の道を北上する旅の過程で、まずは、ここ八重山王国を中継点として小休止し、しかるのち、さらに東方の島々へと伝搬している。

ただ、中国大陸の側についていうと、徐福の時代、この地域に関する地理的認識は、極めて薄弱なものであった。台湾も琉球も十把ひとからげ。中原の視点からすれば、もうすでに南蛮である越の国、そのさらに向こうの海中にある、何か蜃気楼のようなもの、といったところであろうか。あれだけの大きさを持つ台湾島でさえ、大陸人がその存在をはっきり確認するのは、やっと隋朝のころであり、漢人らの移住が本格化するのは、実に、明朝のころからである。ましてや、蓬莱王国の存在や事情が、中国の史書に記されることは、ついになかった。

八重山蓬莱王国の珍奇な文物の中に、徐福は糸引納豆を発見する。この糸引納豆も、蓬莱王国に残る伝説さえ忘れてしまったほどの太古、ジャワ方面から黒潮に乗って伝来してきたものである。極めて栄養価の高いこの豆は、徐福たちには、まさに不老長寿の仙薬であると思われた。航海途上、頻繁に悩まされる脚気に対し、納豆は驚異の特効薬であった。こうしたものがある以上、不老不死の霊薬もきっとあるに違いない。そしてそれは、必ず、この王国の東方にあるはずだ……方士である徐福は、方位論をもとに、自然そのように考えた。しかし東方には、強力な未開の部族たちが、点々蟠踞しているという。徐福一行の現在の勢力では、到底突破できるものではない……そこで、徐福は一旦中国に帰還し、態勢を整え直すことにした。

徐福は、万国津梁の国から持参した数々の珍産奇品を手に、始皇帝の面前に進み出る。徐福の説得は真剣・真摯そのものだった。サメ族(大鮫)やアマ族(海神)の妨害も、本当のことだったのだから。何といっても、始皇帝のように猜疑心の強い人間を、再度、舌先三寸だけで丸め込めるはずはない。始皇帝は、切れ長の大きな目でじっと見つめながら、徐福の熱心な報告に耳を傾けた。最後に糸引納豆の現物を手に取ると、その豺(やまいぬ)のような声で一言「可(よろしい)」と言った。武備を整え、第二の航海に出ることが許可されたのである。今回は一路東方へ、龍孤列島(日本)へと針路を取ることになる。

徐福の船団は、一大海を渡り、ある大きな内海に達した。そこには、山々に周囲を画されながらも、広闊な平野が開けていた。彼らは、現在では佐賀平野と呼ばれる地に上陸したのだ。期待に違わず、ここで彼らは、原住民の口から、蓬莱山のありかを聞き出すことができた。眼前に広がる筑紫平野を、その奥の地まで踏破するならば、その山に至るであろうという。そこは全面草に覆われており、山容の秀麗さは何物に比すべくもなく、常時轟々と巻きあがる噴煙は、人々の限りない畏敬の対象だという。始皇帝が天壇を築き、封禅の儀を行った、あの泰山さえしのぐ偉容であるという……それは、阿蘇と呼ばれるカルデラ式火山であった。徐福とその一行は、聖山に向け、歩を進める。

(10)跋渉(ばっしょう)千里

心ならずも歳月は流れた。徐福たちが上陸した時代の筑紫平野は、決して無人の広野ではなかった。すでに弥生文化の中核技術である稲作が行き渡り、したがって、未熟な姿ながら、大小さまざまの権力集団が、それぞれ独自の武力を備えつつ割拠していた。これらの集団のうちのあるものとは、交渉を通じて同盟を結ぶことができた。しかし、別のある集団とは戦闘を交え、これを切り従えなければならなかった。また、背後・南方からは、クマソと呼ばれる強悍な大部族が、虎視眈々の勢いで、侵略の機会を伺っている。もっとも、筑紫平野に徐福たちがもたらした変動が、彼らを刺激し、団結させたという面もある。不老不死の霊薬への道は、いつしか、筑紫平野統一国家造りの道になっていた。

平野を過ぎて山地にかかると、次には、山岳の民を慰撫し、平定しなければならない。ヒタからツエにかけての道も、決して平坦なものではなかった。しかし、ついに阿蘇に至る。外輪山の頂きに立つ彼らの眼下には、一面緑の広大な草原や森が広がり、眼前には、おびただしい噴煙をあげる中岳が聳えていた。一行の中に、すでに徐福の姿はない。その後継者たちの世代になっていた。彼らは中岳の頂きに進み、天壇を築き、これに北面する。天地を祀る封禅の儀式を執り行うのだ。そこに供えられた山川海の天恵物の中には、あの八重山の糸引納豆も、ひっそりと置かれていた。以後、肥後の国に糸引納豆が根付いた。そして、千七百余年の後、加藤清正によって再発見される日を待つ。

漢書に記された徐福伝説は成就した。山野を跋渉すること千里、徐福とその後継者は、平原広沢たる筑紫平野を一円支配するクニを造り上げた。そして、そこに王として君臨したのである。将来、この統一国家は、支配層こそ徐福一族から天孫族へと交替することになるが、魏志倭人伝に記載される奴国の骨格となる。そこで、この豆を崇める奴国の前身を「奴豆(なっとう)国」と仮称しておこう……ついに産声をあげた新生・奴豆国、しかし、天壇にぬかずく建国者たちは知らなかった。彼らの背後、遠く中国大陸では、始皇帝はすでに没し、秦末・漢初の動乱が渦巻いていたのである。中原の巨大な渦から発したさざ波の一つは、半島を南下し、海を渡りつつ、確実にこの新生国を目指していたのである。

(11)波濤(はとう)万里

島々に基礎を置く海洋王国の繁栄にとっては、地の利が決定的に重要である。たとえば、クレタ島に起こったミノア文明が大きく発展したことの基本的な要因は、この島が、エーゲの多島海中にあり、ギリシャ、アジア、エジプト、アフリカのいずれにも至便という、海上交通上の要衝に存在したことにある。また、小さな島々であれば、大陸などに見られるような、多くの民族・部族の移動往来の波にさらされる、といった危険も少ない。つまり、政治的に安定度が高い。八重山王国もそれらの条件を備えていた。台湾、大陸、倭、南洋の諸国に対しては、東アジアの十字路とでもいうべき位置にあり、しかも、強大な諸民族からは、海によってほど良く隔てられていた。

しかし弱点がある。自然災害に対する脆弱性である。クレタ島について言うなら、ミノア文明が繁栄の頂点にあった時、サントリニという、わずか百キロしか離れていない島の火山が、島の姿を失うほどの大噴火を起こした。このためミノア文明は一旦壊滅する。しかしこの民族・文明のすごいところは、文字通り灰の中から蘇ったことだ。短期間で以前より美しい都市を再建したという。しかしながら、約二百年後の大地震によって、再度壊滅してしまった。二度目の災害の後は、本土のギリシャ人による侵略も相次ぎ、ついに回復することはなかった。その意味では、航海手段が高度に発達しすぎることは、島々の王国にとっては、逆に凶なのかもしれない。

八重山の蓬莱王国に戻る。この地域は、ユーラシア大陸の地塊とフィリピン海底の地塊とが、せめぎ合う場所でもあった。このため、かなりの頻度で巨大地震に見舞われる。徐福一行が去った後も、間もなくそれが起こった。島々にとって、「ゆれ」よりも恐ろしいのは津波である。地震が引き金となり、海底地滑りが起こり、巨大津波が発生した。この津波は、ありとあらゆる物を海底へと引きずり込んでしまう。この温和な小文明は、一瞬のうちに消滅してしまった。その痕跡は八重山海底遺跡として知られるが、これが発見されるのは、ごく近年になってからである。付着したサンゴからも、その悲劇が約二千年前に起きたことが判るという。この島々の王国では、糸引納豆の伝統が途絶えた。

近世になって、明和八年(1771年)三月にも、八重山地震津波が記録されている。揺れによる被害はほぼ皆無だったのに、海底地滑りにより、高さ八十メートルにも達する、巨大津波が発生したと考えられている。この時は、石垣島が津波の正面にあたったため、同島の人口の半分が失われた。八重山群島だけで九千人、宮古島をあわせると、一万二千の尊い人命が失われたという。その後、衰弱した共同体を、飢饉や疫病が相次いで襲う。このため、八重山の人口はその後も減少を続け、百年後の幕末には、津波被災以前の実に三分の一近くにまで減少してしまったという。

(12)津軽へ……そして

奴豆国が筑紫平野から阿蘇一帯に建国したころの大陸は、秦末、漢初の大動乱の渦中にあったということは、既に述べた。現在の北京付近から山東半島にかけての、燕や斉といった国々からは、亡民が多数発生し、地続きの韓半島へと流入する。仁者箕子が封じられた朝鮮の国は、燕から流れてきた投降将軍・衛満のクーデタによって、やすやすと乗っ取られてしまう。箕子の末裔の王族は、多くの民を伴い、半島南部に逃れ馬韓を建国する。しかし中華帝国の手は容赦ない。漢は武帝の代にいたり、ついに衛氏朝鮮を滅ぼし、ここに楽浪郡などの四郡を置く。漢の統治を忌避する衛氏の遺民は、半島南部・馬韓へと逃げ込む。この圧迫を受け、馬韓の貴人・庶人は、さらに南下せざるを得なくなる……そこには日本海が広がる。

壮大な玉突きの結果として、箕子朝鮮の亡民が、大挙海を渡り、「倭」に押し寄せてきたのである。すなわち、天孫族の大渡海である。彼らは九州北部に始まり、出雲、越(コシ)を経て、ついには佐渡にまで至るという、汎日本海・天孫族国家連合を打ち建てたのである。北部九州に上陸した天孫族は特に精強で、奴豆国の地である筑紫平野へ、阿蘇へと、怒濤の如く押し寄せてきた。わずかな抵抗の後、奴豆国は、天孫族により征服された。なお、阿蘇一帯は、天孫族からも、神聖視され、国家連合の統治センターとして位置づけられる。アマテラス(卑弥呼)をはじめ八百万の神々の集う所となり、高天原(たかまがはら)と呼ばれることになる。

天孫族の支配を嫌い、亡命をはかる奴豆国の残党があった。しかし、いずかたへ? 瀬戸内から東海にかけての地域は、天孫族がまだ進出してはいないものの、はるか以前から、縄文・弥生混成諸族の勢力圏である。背後から天孫族が迫っているという状況下で、活路を開き根拠を築くといった悠長なことをことをしている暇はない。残された道はやはり海であった。亡命者たちは、日本海に船出する道を選んだ。対馬海流に乗る。天孫族がすでに建国を開始している、出雲や但馬や佐渡を避け、北上を続ける。そして、ついに天孫族支配の外に脱出したのである。津軽半島の十三湖にほど近い、権現岬に上陸を果たした。そして、ここにもう一つ、徐福上陸伝説を残すことになる。

彼らの一族は、奴豆国の故地にちなんで、阿蘇辺(あそべ)族と呼ばれ、初期の指導者の兄弟は、安日彦(あびひこ)、長髄彦(ながすねひこ)と名乗っていた。彼らが安倍氏、安東氏などの祖になることも含め、その後のことは、かの奇書「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」に記されているとおりである。子孫たちは奥州全域に広がり、この地域の進取開発を、強力に押し進めることになる。そして、安倍貞任や千代童子の時代に至るまで、糸引納豆の製法を伝承し続けたことは、言うまでもない。

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