★波照間の牛★
             
(2000/10/26)



波照間(はてるま)島は日本の最南端の島と言われている。もっとも、島の人は、

更に南に「南波照間島」があるんだ、と言い張るらしい。しかし、行って還って来た

という人は、まだ誰もいないらしい。波照間島には、ブルという種類の米と、踏み耕

という独特の農法があり、インドネシアや台湾との共通性から、米の道の要石として

注目する学者もいる。ひょっとして糸引き納豆も、とも思うが、この質問は時期尚早。


ブルというのは、ジャポニカの近縁種らしいが、南方から沖縄にもたらされたようだ。

一方、日本人が常食している種類のジャポニカはというと、北の方から薩摩が持ち

込んできたという。この他に、大陸渡来のインディカまであるようで、なかなか一筋縄

ではいかない。米の種類からして、すでにチャンプルー文化なのである。そうそう、

もう一つ、泡盛の赤米はタイからの輸入でしたね。


ところで「踏み耕」のこと。珊瑚礁の上に成立しているこの辺の島々では、地下の深い

ところほど空隙が多く、深く耕すと、かえって田の水がしみこんで、枯れ田になってしまう。

川も溜め池もないから、天水(雨水)だけが水源である。ムリブシ(昴)が見える秋,、

大雨が降ると、たとえ夜中でも、島の人たちは、牛を田に連れていき、隅から隅まで、

ていねいに踏み歩かせる。これで、田のひび割れを塞ぎ、水を漲り、それから籾種を

播くのである。


そうした中、大変な不精者がいたという。彼は、牛を何頭もつなぎ合わせ、それを

自分の田に放り出しておいた。うまく行ったなら、大変な省力化で、農林大臣賞もの

だったろう。しかしその時やってきたのは、津波であった。必死に牛を逃がそうとするが、

固く縛ってあって、ままならない。そうこうするうち、男も牛たちも、波にさらわれてしまう。

不精者は溺れてしまったが、牛たちの運命は違った。


昔から波照間の牛は「ひずめに海苔が生えるまで泳ぐ」と言われている。牛たちは

陸地を求めて、果てしなく泳ぎ続けた。しかし、どこまで行っても島一つない。そのうちに

牛たちは、とうとう鯨になって、海で生きるようになったという。毎年、秋になり、

ムリブシが昇るころになると、この鯨たちは、なつかしい波照間島の沖にやってきて、

モーウ、モーウと鳴きながら、潮を吹き上げるのだという。