★モラルの変換★
             
(2000/11/02)



自動販売機というものは、機械の内部でコインや品物を移動させるのに、

主として、重力という原始的な動力を用いている。ところが、このことが

主たる原因となって、少なくとも日本においては、商業の世界におけるモラルに、

好ましからざる変化がもたらされつつある。商業道徳の頽廃と言っていいかも

知れない。いいや、時には倫理観の暴力的破壊さえ感じさせる。


タバコの自販機を例に取ろう。この機械の造作は、大部分こうだ。まず、

胸の高さあたりに、硬貨を投入するスロットがある。次いで、そこより

やや高い位置、目と胸の間ぐらいの高さに、紙幣挿入口がある。運が悪いと、

このあたりで、最初の無礼な仕打ちに遭遇する。時々、モノも言わずに、

硬貨を突き返したり、紙幣をベロッと吐き出したりするのである。まあ、

この辺は、頭も育ちも悪い機械のことだから、と、こらえられないこともない。


しかし、許せないのは、アキンドにとって命であるはずの商品、すなわち、

この場合はタバコを、いきなり、客の足許に放り出すことである。何という

商売のやり方であろうか。寅さんが、「もってけ泥棒!」、といって商品を

放り出す場合さえ、せいぜい商品陳列台上でのことである。しかも、

寅さんが放り出すのは、実は、叩き売りという、一種の大道芸上の重要な

演出なのであって、客にとっては山場なのである。客はこれを楽しみとして、

喜んで対価を払っていくのだ。


ためしに、このごろお喋りになってきた自販機に、同じことをやらせてみよう。

機械が、例の女性風の合成音で、「泥棒さん、持っていけば?」なんて言ったら、

こちらは、売り言葉に買い言葉、「こんなモンいらん!カネ返せ!」、となり、

激高して機械を蹴飛ばすに決まっている。芸にも何にもなっていない。つまり、

同じ道端でモノを売っている立場だというのに、自販機には、大道芸人として

その道を究めよう、という気構えが、根本からないのである。


これだけの散々な振る舞いをしておきながら、こやつは、最後のだめ押しをする。

客に対し、究極の屈辱を強いるのである。客は、商品を取り出そうとすると、

どうしても最敬礼をしなければならないのだ。しかも、買う側が最敬礼している

というのに、売る側は会釈もしないのである。どこの世界に、こんな取引儀礼が

あるだろう。大昔の朝貢貿易ぐらいしか思いつかない。最敬礼しつつタバコを

取り出しながら、ソッと上目遣いに見ると、心なしか、機械はふんぞり返っている。


『ある一つの行為、即ち稀少な財の占取行為の選択は、貨幣というメディアの

コードを通じて、第三者にとっての単なる体験に変換される。第三者は

この体験を、自分たちが関与していない事実についての、一つの情報であるか

のように受け取るのである。(N.ルーマン)』らしいけど、この自販機による

モラル変換問題は、もっともっと未来的な凄味がある。

二十一世紀の果てまで、ブッ飛んでいるような気がする。