★島嶼考(テバピラ焼き直し)★

             
(2000/12/25)



島嶼における文化・文明という問題を考えるために、クレタ島にかつて存在した、

ミノア文明の興亡を概観してみる。まずは、造船・航海技術がそれほど発達して

いなかった時代に始まる。クレタ島は、エーゲの多島海中でも最大の島であり、

ギリシア、アナトリア、シリア、パレスチナ、エジプト、リビアなどのいずれの地との

往来にも至便な、まさに、海の十字路というべき要衝に位置していた。そして、

この地勢上の地位を活用して、交易船団を派遣して、オリエントの海上通商を

ほぼ独占し、その富の上に文明を開花させた。前期ミノア文明である。


島が大陸から隔離されていたことも、有利な条件として働いたに違いない。渡海の

ための手段が稚拙であったこともあり、大陸にあっては日常茶飯事ともいえる、

民族移動による衝撃などを経験しないで済んだと言えよう。現に、大陸側の

ギリシア本土では、先住民を侵略・略奪する形で、後世ギリシア人となるべき民族が

進入してきた。ここに定住した原ギリシア民族も、ミノア文明の刺激を受けて、

徐々に文明を萌芽させることになる。しかしながら、当初におけるその水準は、

クレタ島の側から見れば、相手にするにも足りないものであった。


ところで、紀元前1700年頃、わずか100キロメートルほどの距離にある、

サントリニ島が大噴火を起こした。地震と津波が同時に発生したと考える人もいる。

今日でも、奇妙なカルデラ状をしたサントリニ島の空中写真を見れば、その時

発揮された自然の暴威を充分に感じ取ることができる。ともかくも、この災害により、

クレタ島の文明は、一旦壊滅したという。しかし、この文明というか、この民族の真に

凄いところは、文字通り、灰の中から蘇ったことだ。短期間で、以前より美しい都市を

再建し、被災前にまさる繁栄を誇ったという。


この後期ミノア文明から更なる刺激を受けつつ、ギリシア本土では、ついに

ミュケナイ文明が確立する。このとき、クレタ島を再び大地震が襲ったのである。

紀元前15世紀末のことだという。この災害の時には、初回の大災害の場合とは、

周囲の状況が一変していた。つまり、海の向こうに強力なライバル文明が育っていて、

更に、そのライバル達も、造船・航海の技を身に付け始めていた。このため、

被災後のクレタ島にはギリシア民族が大挙して侵攻し、ミノア文明を略奪あるいは

破壊してしまう。


 ギリシア人の方は、その後、更に高度に発達した造船術と航海術をもって、

フェニキア人と並んで、東地中海の新たな主人公となる。数々の植民都市を拓き、

それらとギリシア本土の間を、直接交易するようになる。フェニキア人の遠距離航海能力の

向上もあいまって、クレタ島の貿易中継点としての位置付けは、急激に低下していく。

ミノア文明は、歴史の彼方に埋没してしまうことになる。シュリーマンの古代への情熱の

後継者たるエヴァンズにより、この文明が再発見されたのは、今からちょうど100年前である。


初期の造船や航海の手段をもとに通商の益を独占し、そのことにより繁栄の絶頂を極めた

文明が、同じ技術が更に発達し、しかも周辺に普及したことを、大きな一因として滅びた

のである。島嶼に限ったことではないが、ある地域なり国家の地勢上の地位というものは、

決して不変・不動のものではない。このミノア文明の場合は、東地中海の中枢に位置しながら、

特に急速に変化していった例を示している。島嶼の人々は、この変化し続ける条件に

極力敏感になり、常にキャッチアップしていく「しなやかさ」を、不断に持ち続けなければ

ならないのではないだろうか。


また、災害に対する脆弱性、ということにも留意しておかなければならない。これに関しては、

明和の八重山地震津波という例がある。明和8年の地震では、震害はなかったとされる。

しかし、津波により、八重山・宮古両群島で併せて1万2千人近い人命が失われた。

「日本被害地震総覧」によれば、これは当時の両群島の人口全体の、約半数に当たるという。

その後、幕末までの百年間は、飢饉や疫癘が打ち続き、更に人口の減少が進行している。

こうした災害に備えることはもちろん、万一発災しても、被害を最小に抑える「したたかさ」に

心がけておく必要がある。


【焼き直し】一応、ちゃんとした出版物に掲載してもらうために、真剣にやりました。