★ボナンザ!-福禄寿(X)-

             
(2001/01/22)



15世紀の冒頭は、日本では室町幕府三代将軍・足利義満、

中国では明朝三代・成祖永楽帝ののころにあたる。明では、

初代・太祖洪武帝が天下一統をした際に展開した死闘のライバル、

張士誠や方国珍の残党が沿海の島々に逃散し、沿岸地方を

荒らしていたので、「片板も海に下るを許さず」という厳重な海禁令を

布告していた。つまり、民間レベルにおける、厳重な鎖国政策である。

これを徹底するため、沿岸地方・沿海諸島の住民を内陸に強制移住

させ、その跡に軍隊を駐屯させるということまでやっている。


しかし、一方では、国家レベルでは、明帝国に封冊を受けた諸王国に

ついては、朝貢貿易という形での通商を許していた。ただし、海港を

指定している。すなわち、

   寧波  日本

   泉州  琉球

   広州  南洋諸国

である。日本では、これを勘合貿易といったり、貿易船を遣明船などと

呼んだりしているが、本質は朝貢ということで、へりくだった立場である。


ここで、日本の主な輸出品は銀であり、輸入品は銅銭であった。その

根本原因は、日本が銭本位制をとっていたにもかかわらず、国内では

銅銭の鋳造体制ができていなかったことにある。一方の中国は、どちらか

というと銀本位制であった。日本では銅銭の値が高く、中国では銀の

値が高いのだ。具体的には、銀一両の値段が、日本では250文程度、

中国では750文程度であったらしく、一航海で銭250文あたり500文

もの利を生むことになる。このやり方で、足利義満は、遣明船一回あたり、

銭数万貫(数千万)文もの収益を得たという。これは当時の幕府にとって

年間租税収入の、数倍にあたったというからすさまじい。まさに濡れ手で

粟であった。金閣寺のうち、日本国内の富で造られた部分は屋根ぐらい、

とでもいうことになろうか。


こんなおいしい話が、足利将軍家の独占物として長続きするはずはない。

ひとつの変化は、足利幕府が政治的には、極めて微妙なバランスに乗った

政権だったことから生じてきた。山名・大友・大内・細川などの有力大名や、

相国寺・天竜寺・三十三間堂などの有力寺社が、日明貿易にまとわりついて

くるようになってきた。一回だけではあるが、あろうことか、朝廷(内裏)までも

遣明(朝貢!)船を出している。もう一つの変化は、やや長期的なものであるが、

銅銭が中国では不足気味になり、逆に、日本国内では過剰になってきた。

こうなると250対750という比率は崩れてきて、限りなく1対1に近づいて

いかざるをえない。徐々に「うまみ」がなくなってきたのである。


しかし、そればかりではない。遣明船の周辺では、本来禁じられていたはずの、

民間貿易が行われていたのである。この原動力は、民衆のエネルギーである。

すなわち、モンゴルの支配を受けながらも、中国側には南宋末からの活発な

経済活動が継続していた。日本においても、建武・南北朝のころからの、

沸き立つような経済・社会活動が続いている。明朝、足利幕府という、それぞれの

中央政権の成立が、かえって、東シナ海に両者の辺境とでもいうべき権力の

空白地帯を創り出し、ここに民衆のエネルギーの解放区が形成されたのである。

彼らが濡れ手で粟の話を見逃すはずがない。結果、この地域における

民間レベルの貿易活動は、年を追って盛んになってくる。


民衆にとって「弥勒世(みるくゆー)」の到来であり、まさに

「世果報(ゆがふー)」の実現である。