★グスク三百★

             
(2001/05/03)



グスク(城)やウタキ(御嶽)を中心として、沖縄本島に点在する9箇所の遺跡群が、

昨年、暮も迫るころ、世界文化遺産に指定された。県民の一人としては、大変に

喜ばしいことである。この遺跡群のうち、5箇所がグスク(城)と呼ばれるものである。

グスクという形式の城塞は、12世紀ごろから15世紀ごろにかけ、沖縄本島を中心に、

奄美、先島などに築造されたもので、石積みの城壁構造を特徴としている。一般には

聖地に建造されているという。今回指定されたものは、首里、中城(なかぐすく)、勝連、

座喜味、および今帰仁(なきじん)の各グスクである。


ところで、現在、グスクに比定されている遺跡は、全体で300箇所は優にあるという。

現在の沖縄県の面積は、約2300平方kuであり、日本の総面積に対し、0.6%に

すぎない。300箇所のうち、名を挙げるに足るものが5箇所しかないとしても、この

割合で逆算すると、日本全体では800箇所ぐらいは、世界文化遺産級のグスクが

あっておかしくないことになる。急峻な山岳地帯を控除しても、日本全国に500箇所

程度あっても当然ということになろう。どうも、琉球におけるグスクの密度の高さには、

首をかしげさせるものがある。


もちろん、同様に世界文化遺産に指定された姫路城などと比較すると、規模的には、

相当に小さいと言えるかもしれない。しかし、姫路城や熊本城などの巨大城郭が築造

されたのは、大名による領国支配体制が完成した16〜17世紀ころである。姫路城

クラスに対比するのなら、時代背景からは、琉球一統がなった後の首里城のみという

ことになるのだろう。そう、それはそれでよい。ということなら、この大琉球にも一つしか

ないのだし、バランスは取れているのかもしれない。


しかし、なお、グスクの数は多すぎると思うのである。大部分のグスクが、構造・規模

において、本土の砦並みであるとしても、当時の琉球の人口が10万にも満たなかった

ということを聞くと、やはり膨大な数だと感じざるをえない。平均すると、一つのグスクを、

赤ん坊から老人まで含めて、300人程度で支えていたということになる。労働可能な

人口や他の生産活動への労働配分を考えれば、グスクの維持に従事できた人的資源は

さらに少なかったはずだ。


若干、時代・期間的な背景を補足すると、琉球本島の大分裂時代、北・中・南の

三山対立が始まったのが、英祖王統第四代・玉城王の1310年前後である。

そして第一尚氏王統の尚巴志が三山統一を果たしたのは、1430年前後とされる。

グスクがフル稼働していた期間は、最長で120年間である。この内乱の期間の

どこかの時点では、300のグスク(その原型程度のものも含む)が、ほぼすべて

出揃っていたはずだ。この120年間のうちのある期間、抗争・内紛を繰り返す一方で、

300のグスクが築造・維持されていたのだということになる。こんなことをしていては、

島全体が、戦争経済状態となり、簡単に共倒れしていたのではないだろうか。


内乱が主因だとすれば、どうしても、300というグスクの数は過大だと思うのである。

そこで、外圧・外患の類はどうか、ということを検討してみた。すると、それはあったのだ。

元寇である。日本が文永(1274)、弘安(1281)の両役をしのいだ直後、元軍は、

1291年と1296年の二次にわたって、琉球侵攻を試みていたのである。この侵攻は、

王統初代の英祖によって見事に撃退されている。元が高麗を征服した経過や、

文永・弘安の役で倭を掠した顛末などの情報は、この琉球侵攻事件に先立って、

いち早く英祖に伝わっていたことは間違いない。英邁の誉れ高い英祖が、この情報に

接して、何らかの行動を起こしたことは、充分に考えられることである。


元による琉球侵攻は、占城(チャンパ)や広東の反乱に対処するためのものだったの

かも知れない。なぜなら、日本侵攻の場合の大きな戦略目標だった南宋は、弘安の役

の直前に滅びてしまっているからである。あるいは、日本そのものがターゲットだったのか

 …… 世祖フビライの時代ともなると、こうした陽動的迂回作戦が、やたらと多くなって

きている。チンギス=ハンの時代のような直線的な攻撃性は失われてきている。当然、

元軍の中枢のモンゴル人の割合も相当低下しており、ステップを駆け、世界帝国を築いた

当時のエネルギーは、既にない。しかし、あまたのグスクの存在も、琉球防衛に大きな

貢献をしたことは間違いない。


グスクとの対比で直ちに思い当たるのは、文永の役を契機に急遽築造された防御施設、

「防塁」あるいは「石築地(いしついじ)」である。これは博多付近の二十km余を基幹として、

遠くは、長門の国の海岸にも築かれている。そして、弘安の役では強靱な防御力を発揮した。

長門などでは、防塁が障碍となり、元軍は戦わずに退却したという。当然これらの情報も、

英祖のところには達していたと思われる。英祖には、おおよそ10年の準備期間があった。

何よりも、三山分裂時のような島内抗争が未だなく、無駄なエネルギーを割く必要がなかった。

これは、防御施設の整備にとって、有利である。この約10年間に、300のグスクの原型が、

一挙に整備された、と考えたい。


先般、今帰仁グスクに行ってきたが、築造年代が確認されている最古の部分は13世紀の

ものであった。今帰仁グスクの謎とされるものに、城の向きがある。この城は、内戦であれば

最大のライバルであったはずの中山の方を向いていない。外洋の方を向いているのである。

あたかも、海から来る何者かに備えるかのように。海側から見てこそ、今帰仁グスクは、

北山の枢要地域(現名護市を中心とする地域)を守る配置になっていることが解るのである。

今帰仁に限らず、グスクの目的が、防塁と同様外部からの侵略への対応であったと考えると、

多くの事柄が無理なく整合するのである。


英祖の時代に、琉球版の防塁としてのグスクが一挙に整備されたとする。しかし万事塞翁が馬、

元の脅威が去った後には、これらが、各地に個々の勢力が割拠し、ついには三山が対立する

原因に転変してしまったことになる。外患を退けるための手段が、内憂を引き起こしたという

ことになるのだが、これはそれほど奇異なことではない。中世ヨーロッパの東西フランク王国が、

「シャトー・モン・なにがし」の名称で代表される、膨大な数の城塞群を築いたのは、そもそも、

ノルマン人やマジャール人による侵寇への対抗が目的であった。しかし、こうした異民族侵入の

嵐が収まってみると、後に残されたシャトー群は、零細な中世封建小領主が割拠し、果てしない

抗争を繰り返すための、根拠地と化していたのだった。