★わしり島★

             
(2001/08/31)



嘉利吉の島に最初の一歩を印してから、一年有余が経過しました。公私のすべてにわたり、カリタンの身を支えていただいたこの地とも、とうとう、お別れしなければならない時がやってまいりました。海や空や風のこと、泡盛のこと、島唄のこと、そしてもちろん、この地で出会った人々の数々のこと ・・・・ こうしたことどもが、走馬燈のように脳裏を横切っていきます。大変に短い期間だったのに、振り返ってみると、一目では見渡せないほどの思い出の山が築きあがっていました。

やや過剰な表現ですが、常に新鮮な驚きに満ちあふれていて、知らず知らずのうちに、この島々とそこに住む人々とに、深く々く魅せられていった日々でありました。観光や出張といった、短期滞在の場合とは明らかに異なります。住民の一人として、あるいはみんなの仲間として暮らしているあいだ、途切れることなく感じ続けた、この地の驚異と魅力とは、いったい何だったのでしょうか ・・・・ いよいよ島を離れる時がきたとわかった直後、心にふと浮かんだのは、エンリコ・マシアスのあの歌でした。


 Adieu mon pays
       
J'ai quitté mon pays
J'ai quitté ma maison
Ma vie ma triste vie
Se traîne sans raison
        
J'ai quitté mon soleil
J'ai quitté ma mer bleue
Leurs souvenirs se réveillent
Bien après mon adieu
      
Soleil ! soleil de mon pays perdu
Des villes blanches que j'aimais
Des filles que j'ai jadis connues
 
            (par Enrico Macias


なぜこれが浮かんできたのかは判らないのですが、とりあえず島歌に翻案してみたらどうだろうか、ということに思い当たりました。例の畏友・頭光さんなど、周りの人に教えを請うたわけです。その結果、まだまだ不十分ですが、「生まり島(うまりじま)」というものができあがりました。お恥ずかしいかぎりですが、(と言うと、手伝っていただいた方々に失礼なのですが)、お披露目いたします。


  生まり島
   
わんや 生まり島 捨(し)てぃたん
わんや どぅーぬ家(やー) 捨てぃたん
わんぬ命(ぬち)
哀りたる命
ぬーぬ ちむいぇーねん 続(ちぢ)ちょーん
   
わんや 太陽(てぃだ) 捨てぃたん
わんや 美海(ちゅらうみ) 捨てぃたん
忘しりたる 時分(じぶん)
想(うむ)かじぬ 湧ちゅん
   
太陽よ わみぬ忘り島(わしりじま)ぬ 太陽よ
わんが愛(かな)ささる 島よ
わんが ひらーとーたる あんぐゎーたーよ


ここで「島」というのは、islandのことというよりはむしろ、自分が生まれ育ったvillage(大字ぐらいの広がり)という意味です。できあがったものを、二・三人のウチナンチュの方に見てもらったところ、興味深い歌だ、と言っていただけました。なかには、これを八重山(やいま)の言葉に直そう、更に旋律もつけてみよう、という大層元気な人も現れてきました。(現在、宿題未提出です。)皆さんからいただいたコメントを、砕いて、均して、もう少し詳しく説明しますと、島歌には、こうしたテーマをこんな風に表現する伝統はない、しかし、根っ子のところの叙情には、なぜか大いに共感を覚えるものがある、というようなものでした。

マシアスがこの "Adieu mon pays" を作ったのは、1961年、アルジェリア独立戦争の難民としてフランス本土に渡る船の上でのことだそうです。つまり、ここで触れられている「故郷(ふるさと)」とは、アルジェリア(の、コンスタンティン)ということになります。アルジェリア、そう、あの「異邦人」で、不条理に満ちた世界を啓示しながら登場し、しかし遂に、「それでよい」という大肯定に到達した、カミュの故郷でもあります。マシアスも、不条理に翻弄され、故郷を捨てざるを得なくなった自分の姿を歌っているのです。風土と人の類似、これが連想を呼んだのだろうと思われます。

すると、
私が驚異と魅力を感じたこと、それは簡単に言うと、不条理と共存している人々が住む世界の発見そのものだったのです。遠い過去に黄金の時代の記憶もありますが、そののちは、大和ぬ世(ゆー)、あめりか世・・・・と、数々の辛酸を経験した人々。あの大戦で唯一、地上戦を経験した人々。多くの親族と土地を失いつつも、「命(ぬち)どぅ宝」を一心に、生きている人々。内地の人間にとっては不可思議としか言いようのない世界、それを知った時の驚き、そして魅せられていく自分・・・・。


うんじゅん わんにん  [貴方も 私も]
いゃーん  わんにん  [お前も 俺も]
艦砲の喰(く)ぇー残(ぬく)さー  [艦砲射撃の喰い残しさ]
   
               (比嘉恒正 「艦砲の喰ぇー残さー」より


たとえば、悲しみが深ければ深いほど、怒りが強ければ強いほど、ふっと、とんでもなく場違いな表現に紛らせてしまうことがあるのです。こうしたことは、随所・随時に観察されます。8月のあの不幸な出来事を回想する際の、本土人の言動と比較すれば、その差異は歴然としてくるのではないでしょうか。そういえば私も、当初は、「このズラしたような表現は、いったい何なんだ?」という、とまどいを感じることがあったものでした。しかし徐々に、その底にある、これ以上はないという深い悲しみや憤りも、見えるようになってきました。底知れぬ究極のメタファー(暗喩)。



神々がシジフォスを押し込めたのは、ある山の頂きまで休みなく
岩を転がすという運命である。頂きに達すると、岩は、それ自体
の重さで転がり落ちてしまう。神々は、ある理由から、無益で希
望のない労働以上に、恐ろしい懲罰はないと考えたのであった。
    
              アルベール・カミュ「シジフォスの神話」より


カミュは、「本当に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である」、つまり、人生は生きるに値するのか、という質問が全てに優先するとし、これに不条理の存在を重ねて考え続けました。そのうちに、サルトルとかいう、妙に気取った北方系インテリとの、不毛な論争に引きずりこまれてしまいます。そんな無駄なことは止めにして、この嘉利吉の邦に一度来てみればよかったのです。もっと早く、結論に到達できたのではないでしょうか。「この人々は、現に不条理と共存している」、あるいは、「人生に生きる意味を与えるもの、それは人間の知恵だ」という結論に。

この人々の心のありようを根幹で支えている、重要な柱のようなものがあると思われます。ヤマトゥンチュの私には、島のアイデンティティとでも理解するのが精一杯ですが、この島々の人々がそうしたものを持っていることは、確かだという気がします。こちらで知人になったDさんが、先般、四日間ほどを要する島の祭りに参加してきました。今回に限らずいつでも、那覇に帰ってからの一箇月間ぐらいは、自分が現在いる場所は間違っている、という思いにさいなまれるのだそうです。ハイマートロスでありデラシネである私などは、そうした話を聞いても、胸の奥底に、もどかしいような微かな疼きを覚えるだけです。


互(たげ)にちぢ交わす 玉ぬ盃(さかじち)に  [心を通わせながら 盃をやり取りすれば]
昔思無蔵(うみんぞ)が 姿(しがた)うつち  [古い昔のお前の 面影がよみがえってくる]
 行逢(いちゃ)りば兄弟(ちょうでー)
 何隔(ぬひだ)てぃぬあが 語れ遊ば
  [昔なじみの本当の親友に逢えば]
  [何の隔たりもなく気が済むまで語り尽くせる]
 行逢たる兄弟
 何隔てぃぬあが 語れ遊ば
 
  [昔なじみの本当の親友に逢ったのだから]
  [何の隔たりもなく気が済むまで語り尽くそう]
   
         「兄弟小(ちょうでーぐゎー)節」より


幾星霜を経て、ここ嘉利吉の島々に満ちあふれたのは、ヤマトゥとは全く違った意味での、人生の達人たちでした。島酒を分かち合い、島言葉を分かち合い、島唄を分かち合い、そして何よりも、歓びや悲しみを分かち合いながら、大らかに悠々と生きている人々でした。テバとしては、人生のこの時期に(どんな時期じゃ?)、このような世界との邂逅を与えてくれた運命には、ひたすら感謝する気持ちで一杯です。

しかし、時は至りました。小賢しいヤマトゥンチュは、そっと去りましょう。そして、この南海の真珠のネックレスを、遠くから静かに見守ることといたしましょう。でも、時々は、目立たないように、こっそり訪れたりもしますよ、きっと。


  暇乞(いとぅまぐ)いとぅむてぃ 持(む)ちゅる盃(さかじち)や
 
    目涙(みなだ)あわむらち 飲(ぬ)みぬならぬ
     
    ンゾナリムヌヨー ハリションカネーヨー
  
                  「与那国ションカネー」より



頭光さんには「8・6調で!」という、もう一段難しい注文を付けましたが、見事に翻案していただきました。脱帽。


                          【NEOテバコラ、擱筆】