<テバコラ 第7話>


☆テばなし「中つ国の貫禄」☆ (1999/11/3)


秋も深まりました。『鍋』の君臨する季節の到来です。

ヴィバルディの「秋」をBGMに(ここはウソ)、牡蠣の土手鍋、

お酒は岐阜県川辺町の本醸造「福和良泉」で決まりです(これしかなかったのです)。

時代を超え、大洋・大陸を越えて、美味の夢は駆けめぐります。


【ジビエ(猟鳥獣類)について】より抜粋

 野原や森林中に自然自由な状態において生息している食べられる動物をばジビエ

(猟鳥獣類)という。なぜ特に食べられると言うかといえば、そういう野生の動物の中の

幾つかはジビエの中に含まれないからである。たとえば狐、狸、烏、カササギ、ふくろう

その他は、臭物といって食べられないのである。

 ジビエは三種類に分けられる。

 第一は、〔略〕

 第二は、つぐみより大きいもの、くいな、やましぎ、やまうずら、雉、

   
兎(小兎および大兎)までを含む。これがほんとうのジビエで、細別すれば、

   
陸地にすむもの、沼沢地にすむもの、毛のはえたもの、羽のはえたもの、となる。

 第三は、〔略〕

 ジビエはわれわれの食卓の花形である。それは健康的で、暖まるし、高尚な味を持った

おいしいものである。それに肉が若い場合はいつもたいそう消化がよいのである。

            (ブリア・サヴァラン著「美味礼賛」、関根秀雄他訳)


ジビエの例として、他に、猪、小鹿、その他すべての裂趾動物をあげていますが、

ここでは狐、狸などを食べられないものとしていることが気になります。


まず、タヌキです。

皆様ご存じのカチカチ山では、とりもちで捕らえられた阿呆ダヌキを材料に、

あの「ばば」がタヌキ汁をつくろうとしていました。

結局、食材にされたのはばばの方だったわけですが、タヌキを食する習俗が

厳として存在していたことが証明されるわけです。


次、キツネです。

調べていくうちに、本邦二大キツネ食地帯とでも言うべきものが浮かび上がってきました。

第一の地帯は岩手県です。ここについては、ま、そんなこともあるかな、やはり、

といった感想です。

第二の地帯は、まだ風聞の段階なのですが、大阪府およびその周辺です。

あのあたりには、「わしら一日一回は、けつねをやらんと、調子わるうていかんわ」

というぐらい常食にしている方が、それも相当大勢いらっしゃるらしいのです。

カラス食、カササギ食、フクロウ食については未確認です。情報をお待ちしています。

なお、一説によれば、カチカチ山のルーツは宮城県ということです。

タヌキ食地帯とキツネ食地帯が、北上川沿いに踵を接していることを知っていたら、

あの柳田国男先生も、遠野物語以上の大ロマンを書いたのではないでしょうか。

どなたかこの大テーマに挑戦していただきたいものです。

特に、岩手、宮城の諸兄の奮発を期待します。

ここで当然の如くご登場いただくのは、クリスマスの主役、七面鳥です。

美味礼賛の記述は、【ヴォライユ(飼鳥類)】→【七面鳥】→【ジビエ(猟鳥獣類)】

という順になっていて、多少読解を要します。

サヴァランは、フランスの七面鳥というものは、アメリカの野生種が近年移入されて

飼い慣らされてきたものだということを認めています。

さらに、ご本人が断頭台から逃れるため一時米国に亡命していた時、コネチカットで

野生の七面鳥を仕止めたといって大層自慢しています。

(そこでは、なかなか結構な四姉妹にも出会えたようです。)


しかし結論的には、「七面鳥は家禽類のなかでは最も大きく」と、簡単に

ヴォライユに含めてしまいます。先進国フランスでは家禽なんだから

ヴォライユなんだよ、文句あっか……という態度ですね。

新大陸の新興国家の立場なんか知らんよわし、君らは誰のおかげで英国から

独立できたと思っているのかね、といわんばかりで、配慮のかけらもありません。

このあたりは、まあ、この本が出版された1825年という時点に立って、

米仏のどちらが超大国だったのかを考えれば止むを得ません。


しかし、「細別すれば、陸地にすむもの、沼沢地にすむもの、毛のはえたもの、

羽のはえたもの、となる」という断定も、何となく一刀両断なものを感じます。毛も羽も

はえていない場合如何、などと禅坊主みたいなことを言いたいのではありません。

キツネ・タヌキ食の否定から始まって、毛も羽もと、相談もなく、

何かえらく勝手に話を展開しているなという気がするのです。

それも、何となくデジャヴュな話だな、という感じがしたのです。

ボケ頭に鞭打つこと三千回、粒々辛苦、やっと思い出しました。


【白い馬は馬ではない】より抜粋

 一般に中国の学者には妙な分類マニアが多くて、しかも分類の仕方が例えば

「飼い犬が逃げて野良犬になった犬」を「犬」の一種に挙げたり、

あるいは動物園などでも、片脚のない(切り落した)鶏を「隻脚鶏」と標示して

「鶏」の一種に数えるなど……と妙な分類をするのだから、

諸子百家の分類はいい加減だなどと目角を立てることはないかも知れない。

                  (安能努著「春秋戦国誌」)


何とも不思議な整合です。

ユーラシア大陸の西端と東端に位置する天秤の錘りとでも言うべき、旧世界の

双璧的超大国の方々が、このような発想の類似を見せるということは、

見方によってはある種の壮観です。

二つの誇り高き中華文明思想国家の揃い踏みですね。


「妙な分類」が敢行できるということは、地大物博国家の特権なのでしょう。

学問としての生物分類学を確立した手柄は、後世の判定では、小国スウェーデン出身の

リンネのものとなっていますが、こんな手柄はただの技能賞にすぎません。

リンネの仕事には、こまごまとしたところはあっても、中つ国の方々が備えておられる

堂々の貫禄といったものが感じられません。

サヴァラン教授の論にこまごまとケチをつけている「テバ」の貫禄のなさも同列です。


(原註) テばなし: 「テバのおはなし」の縮約
け つ ね: 狐を大阪近辺ではこう呼ぶらしい。
狐を甘辛く炊いたものと想像される。☆\(^^;)バキッ!