☆- ホンの幕間 -☆

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[ どぜう豆腐(W) ]
イキの良い、最適なサイズのドジョウが手に入りました。いよいよ前処理にかかります。ドジョウは「泥鰌」とも書くように、泥の中に棲息しています。したがって、大量の泥を腹の中に蓄えています。この泥は、人間が食べても栄養にならないことはもちろん、お味も決して良いモノではありません。というわけで、前処理の第一段階は、当然ながら、この泥を吐かせることです。

二日間は、清浄な流水の中でドジョウを泳がせておいてください。前々回の総括で「旅の支度を整えて」と申しあげましたが、オーバーな表現でも何でもありません。現地に着いてすぐにドジョウを捕らえたとしても、あと二日、つまり二泊はこのドジョウを見守っていてあげなければならないのです。あまり長くこの処理を続けると、ドジョウが飢えてやつれてくるおそれがあります。念のため。

今回のポイントは明快ですが、あえて記すと、

☆ 清浄な流水で、二日かけて泥を吐かせてください。☆
2001/11/29(Thr) 曇り


[ どぜう豆腐(V) ]
次に、ドジョウの大きさです。大きさを決めるファクターのひとつは、ダシの出具合です。これは、どぜう豆腐の全製作過程を俯瞰すればわかることですが、この料理、ダシが取れるのはドジョウだけなのです。あの有名な駒○どぜうなどでは、どぜう鍋でも柳川でも、ちゃんと、別途のダシ汁を使っています。そのため、ドジョウはやや小振りなものでも良いわけで、この辺に、駒○どぜうが食べやすいとされ、女性にも抵抗なく受け入れられている一因があるのではないでしょうか。いつもながら、テバの深い洞察が感じられますね。

もう一つのファクターは、ドジョウの体力です。どぜう豆腐は、別名「どぜう地獄」とも呼ばれています。この暑熱の地獄を潜り抜けて、豆腐の中に突入するだけの体力がドジョウにないとしたら、この一品が失敗することは火を見るより明らかです。体力に関係するポイントとしては、最初にあげた鮮度もありますし、後述するドジョウの前処理(U)も絡みます。鮮度・大きさ・前処理、この三条件を備えたドジョウのみが、地獄の戦火をものともせず(?)、栄光のどぜう豆腐になる資格を有しているのです。「ランボー3 怒りのアフガン」!

さて、とすると、ドジョウの大きさはどの位が良いことになるのでしょう。これはもちろん、Aさんに伺いました。するとAさんは、両手の人差し指で、「このくらい」と示してくださいました。

 テ「すると、三寸ぐらいですか?」
 A「いいえ、8p前後ですね」

あーー、恥ずかしい。年上の女性の前で尺貫法を使ってしまった。しかし、Aさんの、この正確・迅速な反応はどうだろう。9pではなく8pなのだ。テバは、このやりとりで、Aさんが、どぜう豆腐を実際に作っておられた、ということを確信したのである。おかっぱ頭の少女・Aさんが、竹製の物差しを使って、ドジョウの長さを計測しておられる姿さえ彷彿としたのである。頭上には碧空が、遠景には有明海が広がる、あの熊本県は宇土地方の田園地帯で……

さあ、第二のポイントの総括です。

☆ ダシと体力の観点から、ドジョウは8p前後を最適とします。三寸では大きすぎると考えられます。☆
2001/11/27(Tue) 晴れ


[ どぜう豆腐(U) ]
さて、最初のポイントです。これは、鮮度の良いドジョウの入手です。ここで失敗すれば、以下、いかなる努力をしようとも、全てが水泡に帰すはずです。では、ドジョウの鮮度とはなんでしょうか? それは、あらゆる生き物に共通の条件である、「やはり野に置けレンゲ草」の原理です。あのレイチェル・カーソンが「沈黙の春」の中で語っている、センス・オブ・ワンダーに満ちた世界で生きているドジョウこそ、これに該当するわけです。昔々、築地の河岸でドジョウを買ってきた連中がいましたが、彼らは、ドジョウが活き活きと生きていた世界というものを、最初から知らなかったか、すっかり忘れていたか、のいずれかでしょう。第一歩から、つまづいています。

そうした経験を持った人は、もうあまりいなくなっているのかも知れませんが、テバが子供の頃は、ドジョウというものは、買ってくるものではなく、採ってくるものでした。これこそが、縄文時代からの常識、礼儀、作法であったのです。小川の流れを、畦の泥を用いて堰き止め、水を掻い出し、ピチピチ跳ね回るドジョウを、バケツで掬い取るのです。一網打尽の優れた漁法ではありますが、小川とは言え、これはれっきとした農業用水路です。お百姓さんとの、追いつ逐われつの緊張関係もありました。農業対内水面漁業の仁義なき対決、とでもいうべき角逐ではありましたが、いつも、時間的余裕に恵まれた子供たちの勝利に終わるのでありました。

ここで、第一のポイントの総括です。

☆ 旅の支度を整えて、あなたの方からドジョウの古里を訪ねるのです。それができないのなら、おいしいどぜう豆腐はあきらめましょう。☆ 
2001/11/26(Mon) 曇り


[ わが庵(いお)は ]
姫翠(ひすい)、陽子、楊貴妃、ときたら次は何でしょうか。正解は「つぼ八」でした。最初のお店はナイトパブ、次がジュウタンパブ、そして最後がラーメン屋です。すべて我が家の周りのお店です。なお、楊貴妃本人は、「中華・料理」という看板を出しております。某大の法科を出られたというエライ方に伺ったことがありますが、「・」という記号は、関係のないものを並べる、つまり木に竹を接ぐ時に使われるそうです。すると、中華と料理が関係なく存在するお店ということになります。でも、通りすがりにちらっと覗いてみた範囲では、お客さんは、大抵ラーメンを召し上がっています。やはりラーメン屋さんだと思うんですが。

何はともあれ、わが庵は、都の西北ならぬ慶應の隣、食べ物屋さんや飲み屋さんが、数ある店舗のうちの約50%を占めているというあたりにあります。いやー、若い人のエネルギーは凄いですね。こんな街を、ダイエット3.5ヶ月目の人間がふらふら歩いているのも、大都会らしさというものでしょうか。まあ結局は、そっちの方へ話を持って行ってしまうのですが、ダイエッターのための新メニューを開発しました。思い返せばわがダイエットは、新メニュー開拓の歴史でもありました。飽きがこなくて、カロリーは低く、栄養のバランスがよい、という三拍子が条件です。そのためには、ア・ラ・カルトを増やすのもひとつの方法です。

カロリーメイト(初心者)→超固ゆで玉子→バナナ、なんて具合に来たのですが、今回は、ジャーン、「そばがき(蕎麦掻)」です。食物ピラミッドの日単位のところには、穀物・澱粉(米・パン)とありましたが、糖質への転換速度はソバが一番遅いのです。もちろん、ざる蕎麦なんかでもいいんですが、小麦粉なんかも混入してますからどうかな。そばに飽きが来た時には、是非、そばがきを試してみてください。タレをいろいろ変えても楽しめます。あ、それから、食物ピラミッドついでですが、「オリーブオイル」とあるのは、油は加熱すると飽和脂肪酸になりやすいのですが、この程度が一番低いのがバージンのオリーブオイルらしいです ……

 ……しかし、タメになる話ばかりだ。
2001/11/25(Sun) 晴れ


[ どぜう豆腐(T) ]
- あるいは、どじょう豆腐、どじょう鍋、どじょう地獄、地獄鍋、について -

今年の8月の中旬、嘉利吉の邦で、あの「どぜう豆腐」の話に巡りあった時の衝撃は忘れられません。人生は邂逅であるとも、犬棒であるとも、思ったことです。どぜう豆腐については、はっきりと「つくり事である」、と断定された大碩学もおられるようです。その一方で、実際に食べていた、と言われる方々が多数おられることも事実です。テバがお会いした方(以下仮にAさんと呼ばせて頂きましょう)も、この範疇に属しておられたわけです。テバの場合、過去に試みて失敗した事例を知っていたので、半信半疑というよりは、むしろ、つくり事派に大きく傾いていました。しかし、Aさんの話は、細部に至るまで、実際に経験しなければ語れないような整合性のあるものでした。また、テバが時折差しはさむ質問にも、Aさんは遅疑逡巡なく即答されたのでした。

Aさんのプロフィールですが、60代半ばのご婦人です。沖縄のこの世代のご婦人に共通した、生真面目で木訥な話し方をされる方です。去る大戦の末期ごろ、熊本県の宇土地方のとある村に、親戚を頼って疎開しておられたようです。宇土地方は、テバも何回か訪れていますが、山紫水明な土地柄で、有明海や柴尾山に囲まれ、なるほどドジョウの古里である、と思わせるところがあります。失礼にあたるので、お年はお聞きしませんでしたが、多分、その頃は小学校の中〜高学年だったと拝察しました。つまり、この件の証人としては、充分な年齢に達しておられたものと考えられます。当時の味の記憶も鮮明で、最後に「かわいそうだが、おいしかった」と、はっきり述べておられます。極めて迫真性に満ちた証言であります。

お話を伺いながら、メモを取らせていただいたことはもちろんですが、その直後に、更に思い出しながら、注釈付きの詳細なレシピを作っておきました。ポイントは7点ほどあったようです。

・ドジョウの鮮度
・ドジョウの大きさ
・ドジョウの前処理(T)
・ドジョウの前処理(U)
・豆腐の種類
・水の張り方
・材料投入の手順

というあたりになりますか。残念ながら、その後試してみる機会もなく、そのままになっております。ただ、本件について、かねがね心を悩ませておられる同憂の志のために、ここに公開することを決意いたしました。
2001/11/24(Sat) 晴れ


[ ・・・〜〜 ]
早いもので、全世界が震撼した、あの「トンボ事件」から一週間が経った。時間こそ、人の心の唯一の癒し手である。恩讐は、はるか彼方に去った。次にTクンと会うときは、きっと、感涙にむせび、手を取り合い、じっと目を見つめ合うことになるのだろう。諸葛亮孔明は、泣いて馬謖を斬らせたというが、自ら選んで一軍の将に任じた男ではないか。これを敗軍の責任を問うためとはいえ、切らせるとは何事だろうか、と思う。Tクンも、テバが信頼して包丁を任せた男、今更その責を問うてどうなるというのだ・・・

ところで、やっとKORGのチューナーが手に入った。サンシンのチンダミが瞬間にできてしまう、という大変な優れものである。耳を全く使わずにチューニングができるなんて、まるでウソのようである。これでやっと練習に打ち込むことができるというものだ、……だがしかし、どうも、真面目に練習するというより、道具に凝ったり、集めたり、ばかりのような気がしてきた。これではいつまでたっても、初心の域を出そうにない。周りに同好の志もおらず、環境も悪いといえばいえるのだが・・・あっ、また言い訳が・・

ところで、嘉利吉の島で愛用していたKのパン、これが手に入ったので、次の時限爆弾を仕掛けておいた。歯に衣を着せないというか、大変口が悪いというか、まあそうしたことで世間的にも評判のHさんが、今回はターゲットである。この人の奥様にどうぞと言って、そのパンを持たせたのである。Hさんの奥様が、Kのパンのファンになることは間違いないさ。でもそれからよね、お楽しみは。どこで手にはいるかは、教えてあげないもんね、絶対。泣いて頼んでくれば教えてもいいかな。どうしようかな〜〜。
2001/11/23(Fri) 晴れ


[ たらじさびたん ]
予想通り、トンボのカブトとカマは、極々上等でありました。どんなマグロにも二つしかないと考えられている、貴重品の目玉は、家族に一個づつ譲りました。愚息などは、「ここは水晶体だ」とか、「あ、視神経だな」とか言いながら、夢中でかぶりついていました。なお、息子は生物部に在籍しています。よそのヒトのいるところでは、こんなことは言わないと思いますけど。

もう一つの楽しみは、今日の朝です。Sさんに、「やっぱりオイシクなかった?」とさりげなく訊きました。敵もさるもの、直接答えず、「あまったのをお土産にまで貰っちゃって・・・」と、遠回しに感謝の念を伝えてきます。まあ、いい歳をした男が「降参、降参!」なんて言うわけないから、このぐらいで許してあげることにいたしましょう。だがしかし、お土産???

そんな余裕があったとは。T! お前に任せたのは、やっぱり間違いだった。いったいどういう経緯のトンボだったと思っているんだ。それを、私にはカマに微かにこびりついた、あのわずかな身だけだったとは。沖縄のお魚さんをバカにしていた人間には、逆に、お土産だと・・・・。これからは絶対、・・・・だ!(この辺、頭に血が昇って、考えがまとまらない。)

師匠、Kさん、申し訳ありません。私の完全な人選ミスでありました。それにつけても、たらじさびたん(ゴチソウサマでした)。

注:「たらじさびたん」については
  http://www.okinawatimes.co.jp/spe/kotoba20010516.html

  楽ガキに「お姿」あり
2001/11/19(Mon) 晴れ


[ トンボ飛来 ]
嘉利吉のトンボが、1500qの空を越えて、秋深まるヤマトゥの東京に到着いたしました。昨日のことです。折から空の旅は、厳戒態勢をかいくぐってのことです。予定通り飛来してくるのか、関係者が気を揉むことは、一方ならぬものでありました。このトンボは、トンボといってもトンボマグロ、つまりビン長マグロ(ALBACORE)です。体長1m、魚体重10sという、ご立派なトンボでありました。テバは不幸にして、出張なんぞに行っていたため、捌いたりする権利を泣く泣く放棄し、他の方に依頼いたしました。なんでも25人ぐらいの人数が、手を変え、品を変え、刺身も鮨もと、たっぷり堪能できたそうです。それにしても、炊いた米が一斗とは!

手配をしてくださった、お師匠様ならびに釣友のK様、本当にありがとうございます。テバの手元には、カブトとカマが届きました。包丁担当のTさんの配慮で、たっぷりと身が付いていました。ピンク色の身は、口に含んだ瞬間の舌触りこそサラリとしていますが、噛みしめると、トロッとして、その味の濃いこと、濃いこと……。ビントロとも言われる魚の真髄が味わえました。泡盛とも非常に良く合います。感動しながらも、嘉利吉の皆さまのご厚情に、思わずホロリとするものを感じた次第です。それにつけも、うらやましきは世果報(ユガフー)の世界です。ところで話は変わりますが、師匠、Kさん、木・金・土と三連チャンの深海釣り、成果はいかがでしたか?

楽しみがあと二つ残っています。一つはカブト焼きです。これは明日に予定しております。トンボマグロは、少女漫画の主人公のような、キラキラした大きな目をしています。この大きな目こそが、カブト焼きにおける、大変なご馳走であることは言うまでもありません。もう一つの楽しみは、「沖縄に旨い魚なんかないよ!」とおっしゃってたSさんのことです。月曜日の朝、お会いしたら「やはりダメでしたか?」、と訊いてあげましょね。あくまでもオズオズと、遠慮深く、伏し目がちに、しかし上目遣いに。返事の一言と顔色の変化が大変に楽しみです。

   釣友の 情けのトンボ 秋深し

(大琉球釣魚図鑑に、トンボマグロと、師匠とKさんの当面のターゲットらしいカタジラアを追加しときました)
2001/11/17(Sat) 晴れ


[ 油屋ふたたび ]
実に・実に久しぶりに、京都駅に降り立ちました。もう、7年以上のご無沙汰でしょうか。新しい駅ビルができてからは初めてです。新幹線で横を通り過ぎることは何回かありましたが、そのたびに、いったいあの建物の中はどうなっているのだろう、と思ったことです。ま、兎に角、用事ができたので寄ってみることができました。

昔の京都駅ビルは、それこそ何の変哲もないものでありました。お土産屋と食べ物屋が、それこそ、これでもかとばかりに詰め込まれておりました。新ビルは、かなり大がかりなコンペで採用されたデザインのようですが、巨大吹き抜け構造、十数階を貫く大階段、空中回廊などは、結構楽しめました。ところでふっと思い返すと・・・

そう、このアーキテクチュア、「千と千尋の……」のメインの舞台であった、あの「油屋(ゆや)」にそっくりなのですね。宮崎駿と原廣司、二人の天才が偶然一致したのでしょうか。ニュートンとライプニッツ、どちらが微積分学の祖か、というようなことで、しょせん無意味な比較なのでしょうが。ちょっと気になる秋の夕暮れでした。
2001/11/15(Thr) 晴れ


[ 趣向会のこと ]
久しぶり趣向会に行ってきた。あのハイソで鳴らしている千趣会のようなものとは違う。極めて単純な、酒飲みたちの会である。出席するのは7年振りぐらいになる。というのも、開催地が大阪に限られているからである。会員資格条項は、今を去ること四半世紀も前になるが、その前後2〜3年間に、大阪北西部のI市に存在したある職場、ここに在籍していたことがあること、というだけのものである。従って、当初から会員は15名ぐらいだったし、その後、減りこそすれ、増えることはない。最年少会員も、すでに46歳になっている。しかも、永久最年少確定会員である。従って、永久に下働きの身である。我々もズウズウしいが、彼もエラい。

面白いのは、集まってしまうと、完全に当時の気分に戻り、話題も当時の話ばかりになってしまうことだ。振り返ってみると、毎回、同じ話をしているような気がする。外から観察しているヒトがいたとしたら、ただのアホの集まりにしか見えないはずだ。趣向もへったくれもないが、この名称も妙なイワクありなのである。I市の駅前に、関西に多い「立ち飲み」という種類の店があった。酒屋を半分に仕切って、片側で飲ませる、という店である。保健所の関係とかはよく判らないが、ともかくも安いのでここをよくたまり場にしていた。その店の名が「酒好(さかずき)」であった。これを記念に頂き、音読みにして、文字を入れ替えただけというお手軽さである。

多分、世界一、程度が低い会であろう。また、程度の低さこそ、長続きしている理由にもなっているのであろう。
2001/11/14(Wed) 晴れ


[ コンニャク教育論 ]
一週間以上前になるが、息子が学校の実習ということで群馬県まで行き、コンニャクを作ってきた。朝大変な早起きをして、遠路バスに乗って、夜分遅くに帰ってきたのである。今時の中学校は、実習といっても、半分、職業訓練みたいなことをやるものだ、と少々あきれたことではある。PTAのご理解も必要だと学校当局も考えたのか、作品のコンニャクを家まで持ち帰らせてくれた。径一寸くらいのボール状のもので、時々お店にも、精進料理の煮物用として売っているのを見かける。それをダシで味付けしたものを食べたが、ここでびっくりした。うまいのである。それは、まさにコンニャクが芋の仲間、しかもかなり上等な芋であることの証明であった。砕いて、灰汁を抜いて、凝固させて、丸めて、茹でて、と膨大な手間をかけるのは、この味のためであったのか、と思われた。決して救荒用食物などではなかった。失礼したのである。

おでん屋さんの鍋の底には、それこそどう逃げおおせたのか、一シーズンぐらい隠れていたようなコンニャクがいる。これは確かにうまいと思っていた。なにせ、逃亡者の身でありながら、流れ流れて行く先々で、親切なスジのオジサンやらコンブのオネイサンの情けを、たっぷりと吸収してきたという、ケシカラヌ奴なのだから。しかし、この作りたてのコンニャクには、おでん鍋の巷(チマタ)に身を落とす前は、こんなに純な奴だったのかと思わせるところがあった。今後は、おでんのコンニャクに出逢ったら、「君も昔は真面目だった筈だよね。あの頃の自分を思い出したらどうかね。悪いことは言わない。早く自首して出なさい」とでも説教しなきゃ、と真剣に考えてしまった。がしかし、この考えは浅いのでは、という反省が湧いてきた。丸いコンニャクと、四角い(おでんには三角多し)コンニャクには、何か、本質的な違いがあるのではないだろうか。

どんな無垢なコンニャクでも、無理矢理四角い型にはめられて固められたりすれば、性格がねじくれてしまうのではないだろうか。手でやさしく丸められるのとは違うはずだ。こざかしくなり、反抗的になって、ついには鍋の巷をさすらうようになってしまったという訳か。そう、おでん屋さんのコンニャクには、じっくりとカウンセリングしてあげるべきなのだ。身の上話を聞いてあげなければいけない。とすると、学校当局がPTAに伝えたかったのは、まさに教育というものの、重要性・困難性なのだったのだろうな。このごろの妙にアタマでっかちの親に、教育論を仕掛けても、下手をすれば反発を招くだけだろう。その点、産直のコンニャクを食べさせるなどは、なかなか味な方法をとったものだ。うまい物を食べながら、子弟の将来に思いを致させようという、深謀遠慮だったのだな。こういう教育者のいる学校は信用しよう。毎週でも群馬県に行ってもらおう。

ところで、「ん?」と思うところあって、わさび、ねりからし、おろししょうが、という三点(のチューブ入り)を持ってきました。このコンニャクには、わさびが一番合ったのでした。次がしょうが、最後がからし、という順番だったのです。そういえば、コンニャクの刺身というのもありましたよね。そして、ねりからしが合うというのは、相当スレたコンニャクだった、ということですか。
2001/11/11(Sun) 晴れ


[ ソフトランディング ]
ダイエットが一段落いたしました。つまり、体重という指標に関する限りですが、下限値に達したのです。本日の夕方ごろ、ひょっとしてという感じがしたので、慎重・厳正に計量したころ、事実として確認されました。要した期間は三ヶ月と四日、かな?、日数にして96日でありました。いつの日か、「ブタも100日かけりゃヒトになる」という記念の石碑を、比地大滝への遊歩道の入り口あたりに、建立しに行くこととしましょう。

なぜ自分の体重の下限値を知っているかというと、数年前、大層厳重な医学的管理下での、徹底的な減量を一度経験しているからです。あの時は、二週間足らずで達成するという、かなりのハードランディングだったのですが、テバの場合、これがBMI(Body Mass Index)で、標準値22にピタリだったのです。この道を志される方には、何かの参考になるのではないかと思います。

  http://www.wakayamanet.or.jp/jun/bmi/bmi.html

あたりに、餃子電卓、もとい、BMI電卓がありました。

このあたりで、第三の戦略目標が必要になってきたことに気付きました。そう、体脂肪率の改善ですね。つまり、現在の体重を維持したまま、更に、(脂肪)→(筋肉)のコンバートを進めることです。実は、下限値に近づいた予感がしていたので、このごろは、こまめに体重計に乗るようにしていました(状況に応じた、戦略の柔軟な微修正)。すると、500グラムぐらいの精度で、体重の増減が判るようになりました。これなら大丈夫です。

明日は、某マラソンランナーじゃありませんが、自分を褒めてやる意味で、カツ丼でも食べることにしましょう。もちろん、ロースよね。
2001/11/10(Sat) 雨


[ 南痩北肥(冬への備え) ]
鍛えに鍛え、縮めてきたはずの胃袋、こいつがこのごろ反抗するようになってきた。「食欲の秋」とはよく言ったもので、二大戦略、二大戦術という天才的な方法論で順調に滑り出した我がダイエットにとっては、思いもかけない危機の到来といえる。これを凌がなければならない。そうしなければ、延々三ヶ月の努力が無に帰してしまう。レストランや食堂を横目で睨みながら通り過ぎた日々、宴会で野菜や白身の魚ばかりツツいていた忍耐の時間、これら全てが空しかったことになってしまう。そこで、なぜ食欲の秋なのか、そのあたりをおさらいして、自戒とすることにしよう。少なくともこの作業をしている間は、空腹のことは念頭を去っているはずだし。

一般に観察されることだが、南方には痩せ型の人が多く、北方には肥満型の人が多い。これは二つの要因から説明される。代謝の活発さと体熱の放射である。まず代謝について。これは、当たり前だが、体温と外気温の差が大きいほど活発である。湿度や風なども影響を与えるが、平均すると無視できる。もちろん、ずっと一定の気温ということはないから、代謝も一定ではない。その中で秋という季節は、気温の日変化が大きく、更に、だんだん寒い季節に向かうという特徴を持っている。すると、代謝ホルモンが機能し始め、燃料の栄養素をどんどん燃やすようになってくる。胃袋には、もっと補給をと促すので、久しく忘れていた空腹感が甦ってくることになる。

もう一つの体熱の放射の問題。これには、パンダの体格という、判りのよい話がある。パンダの化石などの研究によれば、パンダは温暖期には小柄になり、寒冷期には大柄になっていたという。これは幾何学的にきれいに説明できる。体の体積(ん?)はサイズの三乗に比例し、表面積は自乗に比例する。で、体熱の発生量は体体積に、体熱の放射量は体表面積に比例する。すると、放射量と発生量の比は、体のサイズに反比例することになる。つまり、氷河期などには、体を大きくした方が、体熱の失われ方が少なくなり、有利になるというものだ。夏痩せとは、必ずしもスタミナの消耗を意味する訳ではないし、冬に太り気味になるのは理にかなっているとも言える。

  つまりダイエットは、沖縄でこそ成功しやすいということになる。

冬に向けて、体は様々な準備を始めているわけだ。では、これを回避する方法はあるのだろうか。ある。冬眠してしまえばよいのだ。冬眠から醒めた熊などは、ガリガリに痩せている。寝ながらダイエットをしているのだ。当然、働かなくてもよいし、こんな楽な方法なら大歓迎である。注意しなければならないのは、冬眠には、熊型とハム型とがあることである。ハムスターは、熊などとは違って、哺乳類だというのに、冬眠すると体温や代謝が下がり、心拍も呼吸も下がってしまうという。場合によっては、冬眠から醒めることができず、そのまま死んでしまうこともあるらしい。こうなると、死を賭したダイエットということになる。良い子は決して真似しないでください。

  人間は、多分、熊型だろうと思いますが、誰かタメしてみていただけないでしょうか。
2001/11/08(Thr) 晴れ


[ ユニークなミッション ]
転居シリーズが続きます。今回往生したのは、4Fなのにエレベータがないということです。日本の住宅事情の象徴みたいな話ですよね。とはいえ、本当に苦労したのは引越屋さんです。狭い階段をえっちらおっちら、多分、見積もりに失敗したと思っておられたことでしょう。しかし文句一つ言われませんでした。引越屋さんのカガミですね。是非にという方、紹介します。決してご損はかけないはずです。イチオシです。

この引越屋さんもギブアップしたのが、冷蔵庫でした。階段と手摺りと天井が織りなす三次元空間、この中を、やはり三次元の直方体を通過させる、という難問です。まさにミッション・インポシブルだったわけです。おかげで、購入半年の我が冷蔵庫は、とりあえず出発地の元の家にご帰還願うということになりました。が、冷蔵庫って、意外と必要性が高い備品だったのですね。たちまち生活に支障が出てきます。

いろんな方に相談しましたが、最も多かったのは、「ま、ウチでも冷蔵庫は二台あるよ。おたくでも、もう一台買ったら」という慰めにもならない慰めでした。一台目についての解答になってません。帰宅しての唯一の楽しみ、泡盛のオンザロックもままなりません。コンビニでロックアイスを買ってくる始末です。このままでは家庭不和・一家離散の原因にもなりかねません。やむなく、二台目を購入することにしました。

ここで、もう一人のプロ中のプロが登場します。ベ○ト電器のAさんです。今回は慎重のうえにも慎重、事前に搬入条件を見てもらい、機種決定としたわけです。下見に来たAさん、「機械を使えば外から搬入できる」と、ご判断下さったのです。ベ○ト電器の社員といっても、売り場の人ではなく、そういったことの専門家だったのですね。この辺の交渉は、テバではなくて、協力者にして支援者の「ひま」さんの活躍であります。

当日に出勤してから気付いたことなのですが、一部始終をカメラに収めるように依頼しました。別に好奇心があったわけではなく、つぎの引越にあたっての最重要参考資料を残すためです。このあたり、テバの冷静さが伺えます。あとは楽ガキに載せておきました。ユニックという車を持ってきたようです。狭い路地、張り巡らされた電線・電話線、これらをかいくぐってのミッションだったようです。ミッション・ユニック、大成功でした。

その晩の泡盛のロックがおいしかったこと、これは言うまでもありません。
2001/11/04(Sun) 晴れ


[ わが学舎(まなびや)は ]
わが新居は、慶應義塾の日吉キャンパスと普通部との中間あたりに位置している。周辺には学生(塾生?)たちが多数下宿しているようである。古書屋も、HAL仙人も驚かれたことではあるが、「ダダ書房」なんていう結構濃いネーミングのものが、堂々と営業していたりする。金曜日には何事かがあったらしく、昨夜は、9時過ぎぐらいから、放歌高吟する学生たちが、窓の下を次々と通り過ぎていった。午前二時頃にも、塾歌というのか校歌というのか、「ケイオー、ケイオー……」とやっていて、通行の邪魔とばかり、車にクラクションを鳴らされた連中がいたようだ。

ちょっと見てやれ、と、野次馬根性100%、窓を開けて見おろした。なんと、角帽にインバネスの上半分みたいなマント姿のが5〜6人、散々五々、酔歩しているではないか。うち一人は、「ウリャー」とか奇声をあげて、通り過ぎていく車の後ろ姿にケリを入れているところ。伝説の酔拳か。うーみゅみゅみゅみゅ、何というアナクロ・・・、嬉しくなって、思わずにんまりしてしまった。城北の酒場の精神、ここに健在なり。ダダ書房もダテではなかった。太宰も中也も、さぞかし草葉の蔭から頷いていることであろう。頑張れ学生(塾生?)さん。テバも多少の不眠は我慢しよう。
2001/11/03(Sat) 雨


[ 「嘉利由老舗・日吉本町支店」開店 ]
大恩あるおタナ、老舗「嘉利由」の大旦那から、ノレンを分けていただいたというか、クバ笠を頂いたというか、唐傘一本で追い出された……というか、あれから早いもので、二ヶ月が経ちました。このたび、おかげさまをもちまして、日吉本町支店を開業することができました。ま、そんな立派な構えのもんじゃないから、「支店補佐心得」ぐらいでしょうか。先週の土曜日から日曜日にかけて、水平距離数百メートル・標高差4〜5F(エレベータなし)の、民族大移動を敢行しました。何せ新米の騎馬民族のうえに、指導者の無能もこれあり、大変な引っ越しでありました。引っ越し屋さんこそ、いい迷惑だったことです。今週一杯というものは、開店休業・花鳥風月・落花狼藉・悲憤慷慨・生々流転・千差万別・百鬼夜行・・・といった状態で、スラプスティクな暮らしをしていたのでありました。

しかし、本日に至り、ついに、マイPCの箱の埃を払い、接続も完了する、という段階まで達することができたのです。取る物も取り敢えず、ということではなく、文明論的発展段階の末に達したということですから、これはもう、大したもので……(……そうでもないか)。しかしまあ、ゴク一部分とはいえ、一挙に、二十一世紀的開明的先端的状態的にはなったわけです。このマイPCなるもの、可哀想に、二ヶ月間も箱入り状態だったわけですが、初めはブーンとか呟いていましたが、あとは文句も言わずに働いてくれています。やっぱり女房とPCは古いにかぎる、とか。「弘法筆を選ばす、文豪ワープロを選ぶ」の喩え通り、何となく、ペンならぬキーも走ります。これからは、家族の誰彼のPCをちょいと借りては、興が乗ったあたりで追い立てをくらって、という、流浪の民の生活とは決別です。

ところで話は変わりますが、ここの風呂のことです。追い炊き機能なしでありまして、久茂地のものと同じタイプでした。そうして、あの時の久茂地もそうだったんですが、蓋が残してありませんでした。当然、昨年の夏八月のように、蓋を買いに行かなきゃ、と思っていたわけです。しかし、そのイトマもなくザワザワと暮らしているうちに、このテの風呂に蓋は要らない、もしくは、役にも立たないということに気づきました。となると、ココロは鳴門、その渦潮や・・・、久茂地で買ったあの蓋は・・・。そうです、思い返してみても、役に立ったことは、ナーンにもなかったのでした。まして独り暮らしにおいておや、でした。私のアトに住むハメになったシトも、早く気づいて、捨ててくれるといいんですけど。そうしとかないと、何代かアトの賢明な住人に、その直前の先代が馬鹿にされるんですよね。

それにしても、霊峰富士からわざわざ下山して、引っ越し見舞いに来てくださったHAL仙人様、本当にありがとうございました。まだ全然終わっていなかったのを幸いに、重いダンボールを幾つも持たせたりもして・・・すいませんでした。
2001/11/02(Fri) 晴れ


[ トラウマチック ジャーニー ]
ずいぶん長いご無沙汰でした。担当者の立場を離れてから、平成と同じだけの歳月が過ぎました。N県南部の某村です。プレゼントのリボンを外すような、コワいモノの蓋を開けるような、そんな気持ちで行きました。脈拍OK、血圧OK、その他OK、OK、OK、・・・・。しかし心の傷ははたして癒えているのでしょうか。

今や、プロジェクトCにより、文明開化したテバですから、何の怖れることもないはずです。フランス王もオルレアン公も、何者も怖れなかった、ジャン・サン・プール(無怖公)の気概で乗り込みます。しかしよく考えてみれば、気負っているということは、それだけ深刻なトラウマを抱えている、とも言えるのかもしれない。

おっ、あの男、こんな立派な家を建てたのか。えっ、こいつめ、ちゃんと店を潰さずにやっているぢゃーないか。などなど、驚きの連続です。あのころ、心を砕いたトンネルも橋も、立派に完成して、車でスイスイ走れます。完璧だよワトソン君、という、ホームズの褒め言葉さえ聞こえてくるような立派な村になっていました。

しかし、その夜、宿でたった一人になってから、不安が押し寄せてきました。私が見てきたのは器(うつわ)だけだったのではないか。あの立派な家の中で悩んでいるのではないか、一見立派な店が資金繰りに苦しんでいるのでは。深夜の闇が不安を送り込んできます。やっぱ来るんじゃなかった。こんなところに来るんじゃなかった。

一夜が明けます。現在の担当者たちが来てくれます。彼らと(小さな声で)、あいつはどうした、こいつは無事か、と、昔と今の情報交換をします。いろいろな話を聞くことができました。喜びもありましたし、落胆もありました。でも、不思議なことに、情報のギャップが埋まると、心的外傷も徐々に癒えだしたのです。

飛び込んでみて、よかった。次の夜、つまり、現在の感想です。
2001/11/01(Thr) 晴れ